作品の閲覧

「800字文学館」

カミユを読む(「何でも読もう会」余滴)

斉藤 征雄

 若い時「神にも頼らず革命思想にも与しない人間の生き方」というカミユの思想に興味を抱いた時期があった。五十年たって再度読んだが、老いさらばえた脳の感性では以前にも増して難解だった。

 カミユのいう「不条理」とは何か。「理性で世界や人生を考えたとき、必然的な根拠がみつからないこと」という。典型的には死である。死あればこそこの生に価値があるのだが、それは生と死の矛盾の間に生きることを運命づけられているともいえる。
 死の他に、正義の名のもとに殺人を許す戦争、あるいは貧困などの社会的不合理や病気なども不条理の現象としてとらえる。
 こうした根本的な矛盾=不条理の中で生きる人生に果たして意味があるのだろうか。人間はどのように生きればよいのか、を問う。
 不条理を絶望と思えば、神にすがることや自殺することも選択肢に入るが、カミユはそれらを否定して、たとえ絶望的に見えても希望をもって不条理のただなかに生きていくべきと主張する。
 キリスト教においては、人間のあるべき本質は神が決める。すなわち自分の存在(実存)以前に自分の生きる意味(本質)が決められていた。しかしカミユは、実存が先にあり、自分自身がどのように考え行動するかによって生きる意味が生まれてくるのだという。

 不条理を冷静に見つめそれと戦いながら生きることが、人間の尊厳につながる生き方と説く。絶望することなく希望をもって不条理に反抗する行動をすることによって、孤立した人間同志に連帯が生まれるというのである。
 それはニヒリズムから脱却する意味でもあろう。
 またカミユは、殺人を許す戦争を否定する。そこにはマルクス主義の暴力革命も含まれていた。サルトルは、革命的暴力を肯定する立場にあったので、それを巡ってカミユ×サルトル論争が行われたことは有名である。

 現代においてもカミユの思想に学ぶ意味があるのかどうか。理解不足の私にはよくはわからないが、一つの生き方を示しているのかもしれない。

(参考文献: 小説『異邦人』、『ペスト』、評論『シジフォスの神話』、『反抗的人間』)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧