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「800字文学館」

大蔵大臣の物納財産

大津 隆文

 今は昔の昭和三十六年十月、私は大蔵省の採用内定式に出席するため、東京の三田にある通称第一公邸へ赴いた。そこは広壮な屋敷で大きな日本家屋の前には広々とした芝生の庭があった。この公邸は戦中戦後に日本銀行総裁、大蔵大臣をつとめた渋沢敬三氏の元自宅で、財産税が導入された際物納されたと聞いた。若かった私には建物のよさは分からなかったが、大広間の「欄間」が立派であることが印象にのこった。
 なお、公邸は正式には共用会議所とよばれていて、各省庁の重要な会議、内外要人との会談、内輪のレセプション等の場所として使われていた。
 敬三氏は渋沢栄一氏の孫であったが、父親の篤二氏が放蕩のせいで廃嫡となったため、氏が栄一氏の後継者となった。祖父の懇願に抗しがたく実業界に進んだが、才能豊かな人物で、生涯にわたって民俗学の研究にいそしみ、またその発展のために支援を惜しまなかったという。
 大蔵大臣に就任したのは終戦直後の幣原内閣の時で、当時の緊急課題であったインフレ退治のため、預金封鎖、新円切換え、財産税の導入などの思い切った施策を断行した。自らが導入した財産税のため自宅を物納するという潔さに感銘を受けるとともに、私たち公務員の卵に人はかくあるべしとの無言の教えを示されているように感じた。

 その第一公邸も年々老朽化が進み、平成五年には新しい洋風の建物に生れ変った。旧公邸は記憶の中に消えたのである。
 ところが、数年前にある東北観光ツアーに参加、青森県三沢の小牧温泉「青森屋」であの懐かしい第一公邸に再会することができた。小牧温泉を開発し経営したのはかつて渋沢家の執事をつとめた人物で、旧主の邸宅の買取り・移築、渋沢神社の建立など一帯を整備し「小牧温泉渋沢公園」と名付けた。その後会社は倒産し星野リゾート経営の「青森屋」となったが、公園には手は加えられなかったようだ。
 建物の中に入ることはできなかったが、外観は昔と変わりなくあの「欄間」もしっかり目にすることができた。

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