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「800字文学館」

『徒然草』と無常について(「何でも読もう会」余滴)

斉藤 征雄

 『徒然草』は、二条河原落書に見られるような荒んだ時代を反映しており、ここでも無常を語っている。しかも『方丈記』のような感傷的詠嘆を克服して、無常を根源的原理的に自覚、つまり無常の現実を実相として自覚しているといわれる。

 無常観を最もよく言い表しているのが百五十五段である。
 「…四季の変化は実に早い… 生病老死のことはこれ以上に早い。四季の移り変わりには 順序があるが、死ぬ時期は序(ついで)を待たない。…人は皆死ぬことをわかっていながら急に来るとは思っていないので、突如として見舞われた気持ちになる。突然潮が満ちて来るようなものだ」。「ついで」は、順序のことである。
 ところで今年の桜は早かった。こぶしがまだ咲き残っているというのに桜が満開を迎えたところもある。それを当クラブの句会で詠んだ。
咲くついであとさき乱れ春宴   まさお
 誰の撰にも入らず、無情の極みだった。

 百五十五段では、四季の移り変わりのことを次のように言っている。

「春が暮れて夏になり、夏が完全に終わって秋が来るのではない。春のうちに夏の気がきざしてくるし、夏からすでに秋の気配がただよう。秋はすぐに寒くなるが…木の葉の下の芽は、葉が落ちてから芽が出るのではない。下から芽が出始めてそれに押されて葉が落ちるのだ」

 兼好は、季節の移り変わりに自然の命を実感し、人は死ぬという冷厳な実相を見ながら一方で、新しく生起するもののエナルギーを極めて明確に指摘している。つまり、無常を自覚しながら一方で、生きることを肯定的にとらえ、生を享受する姿勢を保とうとするのである。
 これを真似て詠んだのが次の一句
咲き終はりうてなの奥に光る梅  まさお
「うてな」は花のがくの意味だが、この句も一人として賛同を得られなかった。所詮、無常は独りでかみしめるものなのだ。

 無常観を美意識で表現したのが百三十七段、有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」である。
終はりこそよかれと桜吹雪かな  まさお

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