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「800字文学館」

指輪紛失の記

大津 隆文

 約五〇年前結婚した時、左手の薬指に結婚指輪を嵌めることにした。当時は男性で指輪をする人はまだ多くはなかった。それだけにカッコいい印象があったからだ。それと、結婚指輪には、これから自分の前にどんな素晴らしい女性が現れても、自分にとっては無縁の人と諦めよう、いや諦めるべきだ、という決意の象徴、と思ったからだ(幸か不幸か今日までそんな試練には直面しなかったが)。
 しかし、今まで嵌めていなかった指輪を嵌めると、一種の違和感があった。しばらくは無意識に外したり嵌めたりすることがよくあった。ある日指輪が無くなっていて慌てたが、結局布団の中に落ちているのが見つかった。寝ている間に外したわけで、この指輪の拘束感から逃れたい、という潜在意識に気付かされた。
 以来幾星霜を経て指輪は体の一部のような存在になった。だが、去る十一月四日、就寝間近にその指輪のないことに気付いた。この日は家内の誕生日だったので、昼は長女と三人レストランで食事をした。その後帰宅して風呂場の掃除をしたので、その時落したに違いないと、早速風呂場を探したが見つからない。さらに落した可能性のありそうな家中を探したが見つからない。
 次の日、家内が長女と電話で話したところ、長女はレストランで撮った写真では私の手には指輪が写っていない、もっと以前に失くしていたのではないか、と言っていたそうだ。まさかと思ったが、写真を見てみるとたしかに指輪が無いではないか!
 さらに、この話を伝え聞いた次女からは、来年三月の金婚式で再度指輪交換をしたら、との提案を受けた。しかし、私も家内もこれには全く消極的である。お金がもったいない、また落すかもしれない、と理由はそれぞれであるが。
 長い束縛から解放された薬指は少し淋しそうに見えるが、やがてこれにも慣れるであろう。そして、ある日「おやこんな所に落ちていた」ということがあるかもしれない。そんな淡い期待とともに日を過ごしている。

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