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「800字文学館」

ナポリを見ても死ねない

藤原 道夫

「ナポリを見て死ね」―この有名なキャッチ・フレーズに惹かれ、ナポリは是非とも訪ねてみたかった。実現したのは二十余年前、ローマから観光バスでポンペイを訪ねる途中に寄った。街中では車窓から景観を眺めるのみ、ガイドは「洗濯物がはためいている地区は危険だ」と強調していた。「ナポリを見に来て死ぬのはいやだな」と思ったものだ。
 諦めずに次の年考古学博物館を見るためにローマから一人で出かけた。地下鉄の最寄りの駅で降り、恐る恐る博物館まで歩いた。「アレクサンダー大王の戦い」など見事な展示品の多くはポンペイ遺跡から出土したもの。見学を終え、メルジェリーナに出て丘の上のレストランまで登り、遅いランチを摂った。窓からナポリが一望できた。市街を挟んで真向かいにヴェスヴィオ山が聳える。海岸線が真下からソッレント半島に弧を描いて連なり、卵城が飛び出した湾内に点々と白帆が浮かぶ。料理も美味しく、ここが気に入った。
 翌年4人で同じレストランに夕方出かけた。ヴェスヴィオ山は赤々と夕日を受けていた。しばらくすると夕焼け空が拡がり、山は次第に紫色を帯び、終には黒々と変わった。街に灯りが煌き、点々と半島に連なる。
 その後も何度かこの街を訪ね、危険な目に遭うこともなく街を縦横に歩いて見物し、また様々な食事を楽しんだ。この街は歴史も文化も奥が深い!
 近郊のアマルフィ、ラヴェッロ、カプリ島などにも出かけた。景観の素晴らしさには目を見張るばかり。興味深かったのはポンペイ遺跡。丁寧に見て回ると、ローマ時代の歓楽的な市民生活がまざまざと蘇ってくる。趣向を凝らした館が多い。人々は豪華な浴場で語り、演劇や闘技場での出し物を楽しんだ。美味しい料理にワインもたっぷり味わったに違いない。
 ナポリを見ても死ぬ訳にはいかない。ポンペイ市民の様に楽しみながら暮らす、それが人間の有り様に適っている。見学して至極当たり前の結論に達した。人生はそんな事の繰り返しか。

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