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「800字文学館」

院内銀山跡探訪

大月 和彦

 秋田県の南部雄物川の源流域にあった院内銀山は、慶長年間に開発され、最盛期の天保年間には産出量が日本一、人口3500人の大銀山だった。明治以降も生産が続いたが鉱脈の枯渇などで衰退し昭和29年に閉鎖され、350年の歴史を閉じた。
 銀山の跡地は奥羽本線院内駅から5㎞離れた山中深くにあり、立ち入り禁止の場所が多く、現在は人家がない。
 院内駅に隣接する資料館「異人館」には銀山の資料が展示され、学芸員が説明してくれる。

 初夏のある日、辺境の旅が好きという友人と跡地探訪に出かけた。異人館に相談してタクシーを利用することにする。運転手に行き先を告げると何かためらっているようだったが、四ヵ所だけまわってくれるという。

 羽州街道からはずれてすぐ細い山道に入る。杉林に覆われているが一帯は平地のようだ。
 きれいに積まれた石垣がある。銀山の唯一の出入り口「十分一御番所」跡。藩役人が常駐し、銀山に入る物資に10%の税を徴する役所だった。また出入りする労務者や商人などがここで厳重にチエックされた。
 当時頻繁に起こった飢饉で、逃散する農民たちが流入するのをここで防いだという。
 「十分一」は、今も地名や川の名称として残っている。

 運転手が突然、霊気を感じませんかと呟く。
 杉林が途切れ明るい場所があった。共葬墓地という。小さな墓石がびっしり並んでいる。全国各地から来てここで生を終えた人たちが葬られている。石見、越後など国名が刻まれた碑はそこから来た人のものだという。

 山道をさらに奥へ向かう。進入禁止標識の手前で車を降り、谷川を渡ると明治天皇が東北巡幸の際立ち寄った御幸坑があった。石で固めた坑口をのぞくと丸太で組まれた坑道が奥へ続いている。

 山奉行の詰所で、産銀の収納所だった御台所の跡地は、200坪くらいの平地で礎石が残っていた。この辺一帯は住宅や商店、旅館など建ち並んだ街だったが跡かたもなく、一場の夢と化している。

 鎮守社の山神宮と二カ所ある寺院跡への参拝を省いて国道に出るとホッとした。

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