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「800字文学館」

固有名詞と海馬(かいば)

池田 隆

 本ペンクラブに会員S氏の紹介で元気のよい御仁が入会し、大きな声で自己紹介をした。二次会でその方と偶々テーブルを挟んで向き合った。その一ヶ月ほど前のことだが、S氏と東大周辺を散策した際に本郷の西片町に住む彼を勧誘中だと言っていた。
 だが先ほど聞いた名前が出てこない。暫くして思い出し、
「安藤さんは本郷にお住まいだそうですね」と切り出す。
 憤然とした応え、「大森です」
 大田区の大森に移られたのだろうか、念を押す。
「西片町と聞きましたが?」
 すると、「そうですが、名前が大森です」
 安藤さんは彼より少し前に入会された方であった。
「この呆け爺」と思われたに違いない。
 ことほど左様に直前に聞いた名前や慣れ親しんだ人名地名などを急に思い出せなくなるケース、「度忘れ」が増えてきた。先日の高齢運転者向け認知機能検査では、十数個の事物を思い出す課題にほぼ満点を得たのに…。明らかに固有名詞と普通名詞では脳の記憶の仕組みに違いが有る。ならばどの様に違うのだろう。

 昨今の脳科学の進展は著しい。その啓蒙書を紐解く。大脳辺縁系の部位、海馬が五感から得た日常情報を短期記憶として一時保管する。さらに長期記憶として保存するために、とくに大切な情報を選び出し大脳皮質に伝える。大脳皮質の前頭野がそれらの長期記憶を必要に応じて組み合せながら、思考や想像といった頭脳作業を行う。その際の記憶情報の受け渡し作業も海馬が司る。海馬は記憶の司令塔である。
「物忘れ」はこの海馬の機能低下が原因である。その防止には多種多様な環境、主体性、好奇心、脳の意識的な活用、適度な運動などが効果的であるとのこと。
 ただ固有名詞と普通名詞の区別を海馬がどの様に判断し整理しているのか、私の知りたいこの疑問についての言及は見当たらない。
 だが今後もその仕組みを知るように心掛けよう。たとえ報われなくても構わない。他人様の名前を間違えないような海馬の活性化が私の目的だから。

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