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「800字文学館」

秘湯、Y温泉

大月 和彦

 初夏のある日秋田県の南部、山形県境近い雄物川源流にある一軒の温泉宿に行った。
 奥羽本線の無人駅から山道を4km、行き止まりの山峡の崖にへばりついたような建物があった。谷川に架かる赤い欄干の橋を渡り、急な石段を30段ほど登ると入り口。部屋は四つだけ。
 この辺は雪が深いので十11月中旬から4月いっぱいは休業する。携帯電話は圏外、TVは地上波が届かず,BS放送のみ。
 麓の集落に住む若い女将が、近くから手伝いに来る二人のおばさんとやりくりしている。

 温泉は40度、ph9・6の弱アルカリ性で無色透明。
 「後三年の役」で負傷した兵士が休んだという言い伝えがあり、傷に効くといわれる。近くにあった銀鉱山の保養、療養として、また日清・日露戦役の負傷兵の療養にも利用されたという。
 旅行業者の観光案内やネットには載っていないが、近郊や近県からの湯治客と日帰り客で、手いっぱいと女将さんはいう。
 「日本秘湯を守る会」とは縁がない、きわめつけの秘湯だ。

 ここの特徴は温泉水にある。
 浴槽、樋、洗い場や壁は木目あざやかな青森ヒバで作られ、木の香りが漂う。温泉は澄みきっていて湯舟の底の木目がゆらいで見える。温泉の透明度を比較する指標があれば間違いなく日本一澄んだ温泉だと思う。

 ぬるめの温泉は意外に快い。熱い湯に浸るときの緊張感はなく、ごく自然に身体を沈めることができる。ぬるい湯に浸っていると時の経つのが忘れる。スロー生活向きの温泉だ。
 温泉水は浴用のほか宿の料理炊事、飲み水、洗面にも使われている。飲むとやわらかく口あたりがいい。
 飲んでうまいし健康にもいいという評判が広がり、料理や飲用、浴用にこの温泉水を求めて近郊や近県からくる車の列ができるという。

 時季外れだったので山菜は少なかった。ゼンマイの煮つけ、ワラビのお浸しとこの辺では山菜の王とされるミズなど。朝採りのミズの根元の部分を包丁で叩いてニンニクをからめている。その強いヌメリが地元の名酒「両関」と口の中で溶け合った。

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