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「800字文学館」

継体天皇

斉藤 征雄

 福井市街を流れる足羽川のほとりに、小高い足羽山がある。桜の名所であるが、その山頂に四㍍を超える第二六代継体天皇の石像が建っている。継体天皇は越前から出た人だった。

 日本書紀などによると、第二五代武烈天皇が崩御した際天皇には皇子がなく、王統は断絶の危機にみまわれた。そこで豪族の大伴金村らが協議して、越前の三国から応神天皇五世の孫にあたるという人物を即位させた。それが男大迹王(おおどおう)=継体天皇である。
 継体の父は近江の豪族彦主人王(ひこうしおう)、母は越前の豪族の娘振姫(ふるひめ)。継体が生まれるとすぐ父が死んだので、母が越前に連れて帰ったという。すでに五八歳(日本書紀による)、越前の豪族の地位にあった。
 武烈天皇は暴君だったとされる。日本書紀が述べるその悪逆非道には言葉を失う。人を木に登らせその木を切り倒して殺すとか、妊婦の腹を割るなど平然と人を殺し、人の生爪を剥いで山芋を掘らせる、果ては女性を馬と交接させるなどの異常な行動が記されている。これは武烈を異常な天皇として描くことによって、それまでの天皇の系統に断絶があり、継体が新たな王統であることを示す意図があったと解釈する歴史家もいるが定かではない。
 確かなことは、武烈天皇までは神話の世界なのでどの天皇が実在したのかがはっきりしないが、継体天皇以降については間違いなく実在ということである。

 継体天皇は、河内樟葉宮(くずはみや、現在の枚方市)で即位した(五〇七年)。そしてそのあと大和盆地の外を転々とし、大和盆地の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の桜井市)に遷都したのは即位して二十年後のことだった。大和盆地内に継体の即位に抵抗する勢力があって、それを制圧するのに時間がかかったと考えられる。抵抗勢力とはこのころ以降衰退した葛城氏だった可能性が高い。ちなみに当時の有力豪族は大伴氏、物部氏。そして蘇我氏が台頭しつつあった。

 大和に入った継体政権は、その後に九州で起こった磐井の乱を鎮定し大和朝廷に一応の安定をもたらす。
 日本の国の形ができ始めた頃の話である。

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