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「800字文学館」

池袋駅西口

川口 ひろ子

 東京芸術劇場で上演中のオペラ鑑賞のために池袋駅西口に下りた。
 若い頃私は2年間この地で暮らした。長島選手が立教を優勝させた頃で友人と祝賀会を見物に行った思い出がある。
 駅横に小さな東横百貨店池袋店があり道の向こうに復興洋服街と書かれた粗末な門が見える。その先は闇市だ。思い出の昭和と言う感じであるが健康的な場所ではなかった。かつて此処には豊島師範があり1945年の大空襲により全焼、跡地は闇市となった。後に整理され1970年に西口公園、1990年に東京芸術劇場が誕生した。

 劇場に入ると5階まで吹き抜けの大広間となる。モダンな3角屋根はガラス張りだ。突き当りの直通エスカレーターで5階のコンサートホールに向かう。約2000人収容のこのホール、舞台奥には荘厳なパイプオルガンがどっしりと構えている。
 上演演目は演奏会形式によるモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。歌劇場の設備を持たないこのようなホールで行われる略式のオペラ公演だ。「歌」を主として「劇」の要素を少なくしたこの方法の評判は良く近年世界各地で上演されている。
 今回私の注目は気鋭の指揮者ジョナサン・ノットと東京交響楽団がどの様なモーツァルトを聴かせてくれるかだ。
 結果はブラーボー。エネルギッシュな指揮者のタクトに煽られて速いテンポで疾走するオーケストラは、新鮮な切り口で「コジ」の総てを語ってくれた。
 歌手陣も素晴らしかった。皮肉屋の老人を演じたベテランのトーマス・アレンは、移ろいやすい人の心を評して「女はみんなこうしたものよ」と得意顔で歌っていた。ドタバタ恋愛騒ぎを白けた目で見る青年を演じたマックス・ウエルバも渾身の歌唱で聴衆を「コジ」の別世界に導いてくれた。

 戦後を引きずった暗くて寂しい池袋駅西口は、贅沢なオペラ公演の行われる場に変貌した。世界中から選り抜きの才能が馳せ参じ名人芸を披露して私達を喜ばせてくれる。
 何か夢幻を見ているように思える。

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