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「800字文学館」

月形町

清水 勝

 北海道の地名は、内地から北海道に移り住んだ人たちが出身地の地名や藩名を付けたもの(東広島市、新十津川村、伊達市、池田町等)と、アイヌ語に漢字をあてたもの(小樽、札幌、釧路、苫小牧等)が多い。
 札幌から30㌔北の石狩川沿いに月形町という町がある。出身地でもなさそうだしアイヌ語でもないことから、てっきり町域が満月か三日月の形をしているのだろうと興味を持った。調べてみると、この地には歴史的な意味のあることが判った。
 明治12年、伊藤博文が「未開の地に反乱分子や凶悪犯を隔離し、彼らの労役により開墾し、自給自足させれば監獄経費の削減になる」と提案した。伊藤の部下で、具体的な場所の選定から立ち上げの責任者となる初代典獄(監獄所長)に選ばれたのは月形潔であった。町の名の由来となった人物である。
 月形潔は福岡藩士の子として生まれ、従兄には筑前勤皇党の首領月形洗蔵がいた。三条実美ら五喞が大宰府へ移る際の案内をした人物である。新国劇で演ぜられる「月形半平太」は、この月形洗蔵と武市半平太をモデルにしている。
 福岡藩が佐幕派専制となった時に月形洗蔵と共に月形潔も捕えられ、洗蔵は斬首されたが、潔は維新後に官僚に登用された。勤皇派といえども新政府は長州、薩摩藩出身者が牛耳り、福岡藩出身者は政治の本流とは縁のない仕事を与えられた。
 月形潔は無念な思いを抱きつつ、新任地となる北海道初の樺戸集治監の典獄となった。送られてくる重犯罪者、中には新政府への反乱を起こした国事犯も含め、二千人もの囚人がいた。彼らに北海道開拓のための道路建設を始め、過酷な労役を強いらなければならなかった。
 一方、民生面では樺戸・雨竜・上川三郡の郡長も兼ねており、新天地での開拓に夢を描く移住者への支援も行った。
 体調不良により明治18年に職を辞し、郷里の福岡で静養。明治27年48歳で死す。
「戸籍はそのまま月形に残してくれ」が最後のことばだったという。

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