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「800字文学館」

鐘の音

藤原 道夫

 深大寺の南方にある住まいに、寺の鐘の音が届く。毎年大晦日には窓を開け、除夜の鐘を三つだけしっかり聞いて一年を締めくくることにしている。煩悩のことまで思い及ばないままに。
 鐘の音は好きだ。旅先で機会があれば鐘を撞いてみたくなる。

 鐘と言えば「三井晩鐘」が有名。能「三井寺」では、我が子と生き別れた母親が狂女の態で三井寺にやってくる。折から中秋の名月、女は鐘の音に関連する古典を引用しながら鐘を撞き、謡い、舞う。狂女とはいえ大変な教養の持ち主だ。鐘の音に関する蘊蓄は「三井寺の鐘ぞさやけき」と閉じられる。女は無時我が子に行き逢い、これも鐘をついた陰と感謝する。
 三井寺は二度訪ねた。境内を散策しながら鐘楼の傍に来た時、入口に「一衝き300円」の張り紙があるのに気付き、料金を払い一撞きした。鳴った音は至って平凡に感じた。数年後に再度撞き、同じ印象を持った。

 紅葉の名所として知られる湖東三山の一つ百済寺には何度か出掛け、その都度鐘を撞いた。寺の山門をくぐってしばらく行くと石段となる。200段近く登ってようやく本堂の建つ平地に達する。簡素な鐘楼があり、傍らの立て札に「自由にお撞き下さい」と記してある。早速満身に力を込めて衝く。ゴーンと鳴り、ウォーン、ウォーンと共振音が続く。これが何とも心地よい。数人おいて再度撞く。二度目には衝き棒を突く間の取り方がうまくなり、初回より大きな音が出る。満足な気分で帰途につく。石段を下る背後から、大きくあるいは小さく、澄んだ鐘の音が響き渡ってくる。

 昨秋法隆寺で聴いた鐘の音は記憶に新しい。西円堂脇の鐘楼の傍に居た時、初老の男がやって来て「10時に10回撞きます」と言う。その時を待つ。グワーンと鳴る音に続いてウォーン、ウォーンと響く。先を急いでおり、すぐにその場を離れた。鐘の音が次第に遠ざかってゆく。正岡子規の句碑がある辺りまで来て立ち止まると、西の空からのどかな鐘の音が響いてきた。

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