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「800字文学館」

おばあちゃん先生

濱田 優(ゆたか)

 二十数年前、熱海で小学校のクラス会を開いた。ぼくらは五十代はじめの働き盛り、今思えば景気は、はち切れんばかりに膨らんでいる時代だった。
 担任の村岡キクヱ先生は、そのとき九十二歳。お達者とはいえ遠出は難しかろう。でも先生は是非行きたいと言われる。当日は、レストラン経営のTが運転するセンチュリーにぼくと同級の女性が同乗し、骨董品を運ぶように慎重にお連れした。
 ホテルでは土建業で成功したIが晴れやかな顔で出迎える。彼は、小学生の頃、先生によく叱られていた悪餓鬼だった。
 遠乗りにも、先生は疲れた様子を見せない。宴会では、小柄ながら気丈に腕白盛り生徒に対したおばあちゃん先生に戻り、姿勢を正して大きな声でスピーチをされた。
「長生きの秘訣は?」の問いに、「まず正しい食事と運動ね。そして働くこと。あたしは自分のことはもちろん、家事も嫁任せにしないの」と、揺るぎない信念を語られる。
 見ると、ご馳走も口にするのは身体に良いものだけ。その夜早く寝られると、翌朝は早々に起きてラジオ体操をはじめられたという。同室の女性陣は、前夜遅くまでお喋りしていたのに先生に起こされて寝不足、とぼやく。
 意志が弱くて中年太りが治らないぼくらは、先生にガツンとやられた感じ。明治生まれの根性には敵わない。
 実際バブルのはじけた後、羽振りのよかった仲間が次々に元気をなくし、中には倒れた奴もいる。そんなぼくらに、先生は身をもって生き抜くことの尊さを教えるように、白寿を迎えてもお元気だった。
 しかし長寿にも限界がある。先生の生命も百六歳で燃え尽きた。
 今や、債務に追われる身になったIに内緒の電話で訃報を伝えると、
「おれ、先生に『よく頑張ったね』ともう一度褒められたくて頑張ってる。先生によろしく伝えてくれ」という。
 葬儀のとき、先生のお顔を拝見して、まずIの言葉を伝え、彼を見守ってくださいとお願いした。天寿を全うされた先生のお顔は晴れやかに輝いていて、ぼくは言葉にならない感動に包まれた。

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