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「800字文学館」

銀鼠の海

浜田 道雄

 ふたたび海の話である。
 昨夜の雨は明け方にはあがったらしい。今朝の海は雲に覆われてはいるものの明るく、その色は鈍色から銀鼠に変わろうとしている。
 いつものようにコーヒーカップを手にして、変わり行く沖合を眺めていると、子供のころよく眺めた大森の海が思い出された。

 生まれる直前にはじまった戦争が終わって、母と妹とともに疎開先の上越から父の待つ東京に帰った。
 しかし、生まれ育った街は戦火で焼かれてしまっていたので、私たちは父のいる大森に落ち着いた。叔父の経営する工場がある町工場街の一角だった。そこも一面の焼け野原ではあったが、私たちの移った周辺だけはわずかに焼け残っていたのである。

 大森は、以前住んでいた下町とは違った意味で活気ある街だった。あちこちから旋盤やフライス盤を動かすモーターの唸りや金属板を激しく叩くハンマーの音が交錯する騒々しい街だった。だが、そんな街の工場は子供たちの遊び場でもあった。ベーゴマの肩が丸くなると工場に行って、職人に「コマを削って」と頼んだ。
 職人たちはみな子供たちに優しかった。ここの子供たちは、学校を出ればすぐに工場に入って、やがては自分たちの仲間になると知っていたからである。彼らはベーゴマを削ってもくれたが、またコマを削るグラインダーの扱い方をも手ほどきしてくれた。
 あかあかと燃える炉の火に魅せられて、川沿いのガラス工場をのぞいたりすると、そこの職人は私たちをなかに呼び入れて、ガラス吹きをもたせ、ガラス器の吹き方を教えてくれたりした。

 私はそんな職人の優しさに甘えはしても、この街で暮らすつもりはなかった。この街は狭すぎた。人々が親しすぎたのだ。私はもっと広い世界に出て行って、人々と競い合う生き方をしたかった。
 そんなとき、いつも海岸に行って、遠い水平線を見ていた。水平線の彼方を睨みながら、あの海の向こうへ行くのだと思っていた。

 銀鼠に光る海は、そんな昔の思い出でもある。

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