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「800字文学館」

DO NOTHING

中村 晃也

 十月のある日、千葉県成田市近郊のゴルフ場でプレイした。綺麗に整備されたゴルフ場だが、空港目指して大型の飛行機が松林を掠めて、ひっきりなしに降下してくるのが気になった。それを見ているうちに、子供の頃の体験が蘇った。

 東京淀橋区(現新宿区)内の幼稚園からの帰宅途中、目の前を大きな機影がよぎった。見上げると搭乗員の顔が見えるくらいの高さで、双発の飛行機がうす黒い煙を曳きながら東から西へ滑空していた。
 機体の星のマークを見て「アメリカの飛行機だ!」と年長組の誰かが叫び、全員慌てて各自の家に逃げ込んだ。

 以下ウイーキリスによれば、前年十二月にハワイを奇襲され、なんとか一矢を報いたかった米司令部は、空母ホーネットを日本東岸三百海里まで接近させ、搭載した航続距離の長い陸軍の爆撃機B25で、日本の主要都市を爆撃し、そのまま中国大陸に着陸させる一大作戦を画策した。

 一九四二年(昭和十七年)四月十八日、J・ドウーリトル中佐を攻撃隊長とした十六機のB25は東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸に目標を定めた。
 一番機の隊長機は、四百五十米の低空で侵入し、隅田川、荒川沿いの工業地帯を焼夷弾で爆撃したあと、水道橋から神田川沿いの東京第一造兵廠を爆撃する予定だった。

 ところが、手持ちの東京市の地図は頼りにならず航路を見失い、牛込近くで一番目立った早稲田大学の大隈講堂を狙って焼夷弾を投下した。
 焼夷弾は目標を外れて、近隣の家屋五十軒を炎上させ、一部が早稲田中学の校庭に落下し校庭にいた中学生二名が死亡、他に十九名が重軽傷を負った。
 戦後の調査では、この攻撃で全国の死者は九十、重軽傷四百六十、被災家屋二百八十九とのことだった。

 一方、当時の大本営は、迎撃機も高射砲も役にたたなかったのに、来襲飛行機を九機撃墜し、搭乗員八名を捕虜としたと発表。損害は軽微で、米攻撃隊はDO LITTLEどころかDO NOTHINGであったと報告したという。

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