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「800字文学館」

鈴木大拙館

稲宮 健一

 月初めに、入社同期の友人達と観光旅行で金沢を訪れた。訪れた一つ、鈴木大拙館は小高い丘にある兼六園を下った平地の少し開けた所に建っている。彼の生涯にわたる禅の活動を飾り気のなく簡素に紹介した展示の部屋を出ると、中庭がある。背丈より大分高い白い塀に囲まれ、わずかに周りの高い木々の梢が見える空間があり、何の変哲もない浅い池が庭の殆どを占めて、ここで、静寂な水面を眺め瞑想を味わえという趣向だ。

 彼は著書で、東洋と西洋の発想の大本の違いを鋭く述べている。西欧的なものは、神が「光あれ」と言って以来、光と闇の二つに分かれた世界からすべてが始まった。東洋的なものは、「光あれ」とも何とも、まだ何らの音沙汰の出てこないところに最大の関心を持つと述べている。それが禅の神髄だと言っている。凡人には悟るのが難しい。彼の同郷の盟友、西田幾多郎も事柄の未分化の状態を統合的に考察する東洋的な哲学を切り開いた。

 鈴木は二元論の優れた点も述べている。西欧が科学を進歩させたのは、分析に次ぐ分析で、事実を追跡する考え方で推し進めてたためで、結果として現在の発展を獲得した。常に光を追う精神構造である。しかし、問題は分化に次ぐ分化の過程で、光の対極にある闇を敵と捉え、光とされたところと、闇とされたところで争が起きる点である。無機質な科学でこの思想に従うのは結構だが、生身の人間が生きる生活空間で、これが規範となると、争いを引き起こす。

 貿易センタービルを破壊した9・11と、イラク戦争はそのいい例である。闇、即ち敵とされたのが、本当に真っ黒い敵だったのか。闇はサタンとされ、消し去る相手と攻撃されるが、サタンから見ると、相手がサタンである。東洋の世界では自分の中に光もあるが、サタンもいると心得て相手の立場を考えるのが基本だ。
 そう言っても、この周辺の東洋でも、西洋の悪い点を真似て、自己主張はばかりする国々に囲まれているのは嘆かわしい現実である。

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