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「800字文学館」

モスクワに暮らして

都甲 昌利

 私は1967年から4年半モスクワで暮らした。ソ連時代で最高指導者はブレジネフ書記長、国家保安委員会(KGB)長官はアンドロポフであった。と言えばどんな時代かが想像できるだろう。スターリン時代より悲惨だという人もいた。
 かつてアンドレ・ジイドは、『ソビエト旅行記』で「今日、いかなる国、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間の精神がこのようにまで不自由で、圧迫され、恐怖におびえ、従属させられているだろうか」と書いている。

 同僚4人と赴任したのは3月半ばで、モスクワは未だ雪が残っていた。日本では桜の花が咲き始まる時期である。えらいところに来てしまった、というのが第一印象である。
 赴任して先ずしなければならないのは、食と住の確保である。自由主義諸国であればあれば、自分たちの好きな住居に、家主と契約をして自由に住める。モスクワでは違った。市当局が決める。外国人だけの居留地があり周囲はフェンスで囲まれている。警官が24時間、365日見張っている。当局の説明によると、モスクワでは窃盗等の犯罪が多いから保護してあげているのだという。物は言いようである。
 約1年間住居が与えられなかったため、ホテル住まいで、朝食はホテルのカフェで済ませた。黒パン、ケフィール(ヨーグルト)、少しの野菜、紅茶。これが365日続いた。昼と夕食は支店長宅で女中が作る料理で飢えを凌いだ。ロシア婦人の作るボルシチ・スープ、ザクースカ(前菜)、ペリメニ(水餃子)、キエフ風カツレツなどの料理はとても美味しくて満足した。

 ロシア人達も食料の入手には難儀をしている様であった。店は品薄で何時でも手に入るとは限らない。どこも行列だ。主婦たちは大きな買い物袋をいつも持っている。これをロシア語でアポーシカと言って「ひょとしたら」という意味もある。
 帰国後この話をナイロビから帰国した同僚に話すと「アフリカよりましだよ」と言われた。

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