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「800字文学館」

シンガポールの不思議

安藤 晃二

 1980年代初頭、我が家族はシンガポールに滞在した。閑静な住宅街に一軒家を借りた。右隣はアメリカの定年石油技術者、若い中国系の奥さんにベビーが生まれたばかり、向かいは豪壮な屋敷で、見知らぬ国の大使館らしい。それ以外は中国系の家であった。奥の家は、単純な破風屋根の家、左端にドア、一階と二階に大きな窓がある。二階の窓から、五十がらみの艶めかしい婦人が、外を眺めて座っている。家の主人は腕の立つ仕立て屋、彼が作る大胆なスリットとタイトな中国服には、注文する日本人の奥様方も閉口気味だ。その家は夫婦で一階に暮し、階上の婦人は愛人なのだという。その話は近所に知れ渡っていたが、事情は詳らかではない。シャツと半ズボン姿で二階への上がり降りに忙しい仕立て屋の男、眼光鋭く、いつも不機嫌、日本人ビジネスマンも取りつく島がない。

 緑豊かなシンガポールの町は、一見、実に快適に見えるのだが、冷房の効いた社有車から眺めればこそである。外は炎熱地獄と湿気、色鮮やかなブーゲンビリアも香りすらしない。運転手のイブラヒム君はイスラム教徒のシンガポール人、妻と二人の子供が居る所帯持ちだ。彼は「見よ、東海の空明けて…」と軍歌を口ずさむ。小学生時代、日本統治下の学校で習ったのだ。毎日顧客回りの同志は自分のプライバシーにも触れた。彼は、年に一度、休暇を取り、タクシーを雇って、出身地のマレーシアの村で待つもう一人の妻と家族の元に帰る。彼が都会で働き、両国に住む二人の妻達の苦しい生活を支えているのだ。因みにシンガポールでは、イスラム系以外の人間の重婚は違法である。

 私はその日、母親の急逝で、空港へ急行していた。別れ際に、彼は車の脇に、直立し、「貴方とご家族に心からのお悔やみを…」と、言葉正しい英語で口上を述べ、力強い握手で見送ってくれた。
 私は長い会社生活の中で、彼がイスラム教徒であることを捨象して考えても、この人程実直な人格に会ったことがない。

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