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「800字文学館」

新門辰五郎と娘お芳 ~徳川慶喜との繋がり~

清水 勝

 鳥羽伏見の戦いの終盤(1868年1月6日)、幕府軍総大将徳川慶喜は「たとえ、大坂城が焦土になっても戦い抜こう!」と檄を飛ばした。ところが、慶喜はその夜に僅かな側近と共に大坂湾に停泊中の開陽丸に逃亡した。その船には側女のお芳もいた。このお芳は江戸火消し新門辰五郎の娘である。
 慶喜は余程慌てたのか徳川宗家の証し『金扇馬標』を置き忘れた。回収を命ぜられたのは慶喜の護衛役新門辰五郎であった。無事回収したものの開陽丸は既に出航しており、陸路で江戸に届けた。
 幕府滅亡後も辰五郎は慶喜が謹慎のために水戸へ向かう時、密命を受けて金二万両と共に随行した。また、上野の彰義隊に対しては辰五郎の子分に支援させている。その後、慶喜が駿府に向かう際にも辰五郎も隋従し、その地で護衛の任に就いていた。
 在駿中の3年間には清水次郎長とも会っていたようである。「江戸っ子だねぇ」の森の石松のセリフは辰五郎に言った言葉から来たのかもしれない。明治4年、辰五郎が71歳となったことから浅草の自宅に戻り、四年後に病死した。
 天下の将軍と大江戸一の侠客である新門辰五郎とはどんな繋がりがあったのか。
 まずは、お芳。一橋家に行儀見習いのための女中奉公をしていた。美人のお芳に目をつけたのは慶喜だった。
 一方、辰五郎は一橋家の火回りをしていた。慶喜が禁裏御守衛総督に命ぜられた際に、一橋家には藩士もいないことから、用人の黒川嘉兵衛が辰五郎に御所と二条城の防火の任を要請した。当時六十四歳の辰五郎は侠客としては既に名を挙げており、新たな男の生き様を求める気持ちと、幕府御三卿の一橋家の命に感激したこと。さらには娘お芳も京都に行って慶喜のお世話をしていると聞き、父娘共々慶喜に仕えようと考え、二百名の子分を連れて上洛した。
 江戸に戻ったお芳のその後は全く記録がない。果たしてどんな生涯を送ったのだろうか、興味深い所だ。

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