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「800字文学館」

久しぶりのサイクリング

池田 隆

 渡良瀬遊水地は関東平野の中央に位置する貴重な自然保護地帯である。ラムサール条約にも登録されている。関東平野の治水や利水の歴史に関心を寄せている私は、春の好日その現地探訪に出掛けた。東武日光線の柳生駅より徒歩十数分で遊水地の縁に出る。道の駅が堤防の上にポツリと建っている。その展望階に上ると、眼前に広大な貯水池と葦の湿原が広がる。
 平日でレジャーの車や人出も少ない。ただ時折ヘルメット姿のサイクリストがスイスイと下を抜けていく。よし今から数時間かけて出来るだけ歩こうと階段を下りると、偶々レンタサイクルの看板が目にとまる。横の地図板を見ると遊水地にサイクリング道が縦横に走っている。これを借りて隈なく回ろうと急に気が変る。
 最後に自転車に乗ったのは何時だろう。思い出せないが学生時代から五十代頃まではよくサイクリングに出掛けたものだ。今も自信はあるが、念のため片足が地に着くようにサドルを低く調整する。跨ってこぎ始めると、ハンドルがいささかフラフラする。最近歩く時も一寸躓くとバランスを崩すことが多い。不安も過ぎるが、堤防の上の自転車専用道を無事に走り出す。
 高低差のない草原コースであるが一時間ほど乗り回していると、弱い向い風が辛く感じてきた。小休止をとり、さあ再出発と左足をペダルにのせ、右足を勢いよく蹴ってサドルの後ろから回して跨ろうとした途端である。自転車もろとも向う側に倒れ、もんどりを打って堤防の法面に転げ落ちた。
 大怪我をしたかと一瞬思ったが、痛むところもない。幸いに草むらの上であった。立ち上り周りを見渡たしても人影はない。他人に見られずホッとしたが、助けも呼べなかったと思い直しゾッとする。それにしても何故転倒したのだろう。自分でもよく覚えていないが、どうも股関節が頭で思ったように開かず、サドルを手前から押したようだ。
 元技術屋として手足の位置制御機能の経年劣化を痛く自覚するサイクリングとなった。

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