作品の閲覧

「800字文学館」

軽井沢の「父」

首藤 静夫

 国道18号(旧中仙道)を軽井沢から中軽井沢方面へ自転車で走る。並行する線路が中軽井沢の手前で右に湾曲し、国道と触れ合うばかりになる。道路に沿って白壁が現れた。奥は古い構えの邸宅や蔵が見え隠れしている。門扉は開け放たれ中に人影はない。いかなる由緒の館なのか――入っていいのか叱られるのか。
 これが軽井沢開発の父、雨宮敬次郎の屋敷跡だと聞かされても「誰? その人」と返ってきそうだ。「雨敬」の名は忘れられている。

 甲州財閥の巨頭、雨敬が結核の転地療養で軽井沢に来たのが明治16年、あのショー宣教師の5年前だ。当地が気に入り330万坪の原野を購入、ここで畜産やブドウ栽培などを試みた。うまく行かず植林事業に転換、毎年数十万本の落葉松を植え続けた。本人死後の大正期には七百万本に達した。これが避暑地・軽井沢の礎となる。今は樅ノ木が目立つ当地だが、北原白秋が詠うように昔の主役は落葉松だった。線路が屋敷近くで湾曲するのは、彼の土地に鉄道を通す代わりに家の前で停車させる約束だったとか。
 雨敬は東京、横浜を舞台に鉄道、電燈、製粉などを次々に事業化し、また投資家としても勇名をはせた。植林は余技だったのか。

 広大な敷地には記念館や町立歴史民俗館などが建ち、落葉松の涼風を浴びていた。建物群の奥は浅間隠しの離山だ。その山に向かって細い道がついている。イノシシ除けの電気柵やヘビ注意の立札にびびりながら薄暗い杉林を上る。
 しばらく歩くと階段がある。40段はある。ままよと登ってみた。大きな墓碑が目に入った。碑に刻まれた文字は古び、苔むしていたが雨敬と夫人であった。左右には中、小型の10基ほどの墓が並んでいる。一族の墓所なのだ。親族以外は知る由もなかろう。寂莫の気配が漂っていた。
 大実業家の雨敬だったが後継者は次々に早逝、関東大震災の被害もあって彼の事業は衰退した。
 軽井沢だけが縁戚に譲られ、その才覚で今日まで続いている。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧