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「800字文学館」

ふるさとは発展したか

首藤 静夫

 4月初めは、毎年墓参をかねて帰郷する。
 ふるさとは大分市の外れである。市町村合併前の昭和30年代までは「北海(あま)部(べ)郡大在(おおざい)村」といった。人口約7千人の半農半漁の村だった。日豊本線で大分駅から南に4つ目の駅で降りる。村としてはまずまずの規模だが、大分市内の高校にかよう時分、大在から通学というと同級生たちは微妙な反応を示した。ほとんどの生徒が旧市内の子だったのだ。
 ところが先だって帰郷の折、この旧村(むら)の人口が2万7千人を越えたと聞いてびっくりした。今では特急列車が停まるという。学校は、小、中とも村に一つずつだったが、現在、児童約千名の小学校が二つ、中学は一つだが生徒数約九百名。いずれもパンクするので学校を増やすとか。そういえば実家の辺りもアパートが目立ってきた。

 この村は、昭和30年代、新産業都市計画で指定地域の一部になった。そのため土地区画整理が進み、村のかたちが一変した。碁盤目状に整備された広い道路に沿って住宅が建て替えられた。本瓦葺、蔵つきの日本家屋が豪華さを競っている。
 当然ながら、村の匂いはなくなった。田んぼも海も消え、仕事する人影もない。昔の友人の家も見分けがつかない。親の亡くなった今は帰郷の義理をはたすと逃げかえる。
 新産都計画は結局失敗した。進出企業はほとんどなく、広大な臨海埋立地は長い混迷の末、ソーラーパネルの集積地となった。

 産業のないこの村が人口膨張を招いているのは大分市のベッドタウンになったからだ。市中心街まで車で約40分、平坦な海沿い、自然災害にも強いという環境が好まれているようだ。
 古くからの住民の多くは田んぼや蜜柑畑をつぶして賃貸アパートにかえ、その上がりで生活している。例の豪邸ずまいだ。賃貸アパートの方は他所からの人たちが大ぜい移り住んでいる。のどかだった旧村に二極化という都市化の現象があらわれている。
 新産都計画は50年もの歳月をかけて、いびつな社会を作り出したのだろうか。

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