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「800字文学館」

春の散歩

内藤 真理子

 神田川の遊歩道を歩いていたら、新緑の水草が群生しているあたりで二〇匹くらいの鯉が体をぶつけ合い重なり合い、バシャバシャと水しぶきを上げて先を争っている。それぞれの鯉は、背びれがぬめぬめと黒光りして力がみなぎっている。その一団がある程度先に進むと、今度は一列になってUターンをして元の位置に戻ってきて、又同じことを繰り返す。その一方で底の泥を蹴立てて水草の下に潜り込む鯉もいる。
 繁殖行動なのだろうと思いながら先に進んだ。だが、あの迫力を書き留めておきたいと思い立ち、歩道橋の脇でメモ帳を開いて夢中で書いていると
「あのー、郵便局はどこにありますか」
 二十歳くらいの外国人の青年に流暢な日本語で声をかけられた。たしか大きな道路を渡った先の、入り組んだ住宅街にある筈だが説明するのは難しい。それならと、そちらの方を指さして
「あの辺にありますので、一緒に行きましょう」と歩き出した。
「お国はどちらですか?」と聞くと、青年はわからない様子で困った顔をしている。余計なことを聞かなければよかったと思ったが、何とかしなければと、「ユアーカントリー?」と我ながら訳のわからないことを付け足した。案の定青年も、不安そうに
「アメリカです」と言った。
「そうですか」と言うと青年は、自分の回答は間違っていなかったとほっとした様子で
「でも、今は杉並に住んでいます。あっ、十日間くらいです」
 やっと会話は成立したが、これ以上深みにはまらないように、後は無言で郵便局への道を急いだ。見える所まで行き
「あそこです。気をつけて行ってください」と踵を返そうとしたら青年は
「何て、ご親切な方でしょう、何とお礼を申し上げればいいのか」と、頬を上気させながら丁寧すぎる日本語でお礼を言ってくれた。
 青年の健気さがとてもフレッシュで、何故か、春って良いな~と思った。
 そして帰り道も先程の対岸を覗きながら、勢いよく背びれを尖らせて突き進む鯉の大群を見たいと探した。

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