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「800字文学館」

軍艦島にて

首藤 静夫

 軍艦島は手前の島かげからいきなり現れた。朝もやの中、真横から見るその姿は軍艦の名にふさわしい。正式名称を端(は)島(しま)という。長崎市内の港からクルーズ船で三十分、外洋に少しでた程度だがすでに波が岸壁を洗っていた。
 かつて端島は隣の高島と並び海底炭鉱で知られていた。私が入社した会社はこの両炭鉱を経営する企業と同じ財閥系だった。その縁で大卒の新入社員は実習期間中、端島で数日間の実地体験をさせてもらっていた。私のころはなくなっていたが、「端島」は幾度となく耳にした。それが目の前にそびえる。
 高く頑丈な岸壁や鉄筋アパート群がはっきり跡をとどめ、他の建屋はつぶれている。黒々と沈黙の廃墟だ。採鉱現場跡は海底深くにあり立ち入れない。
 南北に480米、東西に160米のこの小島に最盛期は5千名を超える労働者とその家族が居住したという。超過密だったのだ。昼夜操業で常に明るかったが、廃墟の今、付近を通る船舶の安全のため島に灯台ができている。これだけが白く輝いていた。

 戦時中の半島・大陸からの労働動員や徴用に対して、近年訴訟が提起され政治問題も生じた。この島の歴史を振り返るとき廃墟ツアーなどと面白がって良いのだろうか。
 私のいた会社には勤労部があり、工場製造員等の労務管理を受けもっていた。当時「炭鉱労務」という言葉があった。日本の多くのメーカーが同じスタイルであったと思うが、要するに従業員と家族を丸抱えで企業に取りこむ労務政策である。縁故者の採用から福利厚生、退職者の老後制度など善かれと思うものは各社競って取り入れた。その原点が炭鉱の労務である。
 端島は孤島のうえ人口稠密、島民は緊張を強いられただろう。仕事上の、生活上のトラブルが想像できる。労務担当の苦労もひとしおだっただろう。
 ただ、昭和30年代、炭鉱夫の賃金は勤労者平均の3倍、「三種の神器」といわれる家電品がどこよりも早かったという明るい話題を最後に記したい。

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