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「800字文学館」

わたくしだい(私大)―暦を動かす

大月 和彦

 江戸時代の旅行家菅江真澄は、寛政年間に滞在していた南部領の下北半島大畑の歳末の様子を「三十日、わたくしだいなどという習慣が今年はなく、暦のとおり行った…」と書き、その2年後に年末を過ごした田名部で「今年は、一月一日に当たるきょうを去年に数える習慣が行われ…、暦の上では元日だが外は歳末気分で商人が行きかっている」と記している。

 当時の暦(太陰太陽暦)では月の満ち欠けの期間を1か月(1朔望月=平均29.5日)とし、1年を大の月(30日)と小の月(29日)に分けた。大小の配列は毎年変わり、12月が小の月の年は29日が大晦日になった。

 南部藩ではこのきまりを変え、12月が小の月に当たる場合は大の月に扱い、12月は30日までとし、暦の上の元日を大晦日に、1月2日を元日とする習慣が行われていた。
 先送りした1日分は正月18日から19日を飛ばして正月20日とすることによって調整した。

 この習慣は、藩祖の南部光行が甲斐の国から盛岡に入った年から始まった。藩主一行が新しい領地のにわか造りの城に入ったのが、小の月の12月で29日までだったので、歳末と新年を迎える準備が間に合わなかった。
 苦肉の策として小の12月を大の月にした故事に由来し、以来ずっと行われていた。
 藩が私的に暦を動かして小の月を大の月としたのが「わたくしだい」だった。

 真澄は、土地の人たちが暦の上での元日に逝く年を惜しみ、2日に初詣でや若水汲みなどの元日行事を行っている情景を見て、この習慣は領内で武士や商人などの間に行きわたっていたと書いている。

「わたくしだい」について南部藩家老の日誌に「正徳元年辛卯歳旧臘雖為小月、旧例佳規以小為大由故、以暦乃二日為元日」の記録があり、寛政6年正月19日の条には「御旧例之通今日廿日ニ御直被成也」と19日を20日に直したと記している。

 当時の暦は、幕府天文方と土御門家など暦の専門家によって作成され、幕府に管理されていたが、南部藩のこの習慣は黙認されていたらしい。

(16.4・14)

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