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「800字文学館」

昭和13年生れは少数派

濱田 優(ゆたか)

 このクラブのメンバーは、なぜか私と同じ昭和13年生れが多い。
 だが、出生数の年次推移のグラフを見ると昭和13年、14年はガクンと凹んでいる。厚労省の統計では、この頃の日本の出生数は並べて年間210万人台なのに、この両年は約190万人に落ち込み、二年間で40万人以上少ないのだ。グラフにはそこに「日中事変」と注記がある。でもなんでそれが出生数減少の理由なのか。その頃の日本は勢いがあって、戦勝を祝う提灯行列が盛んに行われた、というのに。

 その疑問は、昭和史をぼつぼつ勉強しているうちに、解けてきた。昭和12年7月盧溝橋事件が起きた後、日本はそれまでの不拡大の方針を軍部強硬派の圧力で翻し、日中戦争につながる増援部隊の派遣に大きく舵を切った。このために膨大な兵力増強が必要になり、現役を終えた予備役や補充兵役も大勢召集された。彼らの大半は社会人になり家庭を持っている。その妻帯者を多数戦場に狩り出したことが、この両年の出生数に大きな影響をもたらしたに違いない。

 当時の政府は、こんな妊娠を遠ざける要因を作りながら、13年の出生数減少の実績に慌て、14年9月に「産めよ増やせよ、国のため」というスローガンを掲げた。
――そんなこといわれたって、夫を取られてどうやって子作りをしたらいいの。いくら、私生児や未婚の母も扶助する「母子保護法」(昭和13年1月施行)を作ってくれてもね――
 夫との仲を引き裂かれた妻たちの、こんな呟きが聞こえてくるようだ。
 その後、出生率が回復したのは、温存していた若者を戦場に送って妻帯者と交代させたと考えられる。

 あの時代、私たちの親は、洞察力に欠ける時の権力に翻弄され、反論は愚か、愚痴を口にしただけでも「非国民」のレッテルを貼られる酷い時代だった。軍の暴走を許した政治家と提灯持ちに成り下がったマスコミの責任は重い。
 今は違う、と声を大にして言いたい、ところだが……。

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