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「800字文学館」

スモーキーフレーバー

稲宮 健一

 ジョニーウォーカー赤が生協で売られていた。しかも、千円以下である。かつて、海外出張の折、免税特典で貴重品のように持ち込んだ。赤は自分用、黒はギフト、当時は皆もそう思っていたし喜ばれた。しかし、今回封を切って、味わって見ると、かつての感激した味を少しも感じない。

 学生の頃、新宿でよく飲んだ。五、六人集ると、鍋を囲んで熱燗で気勢を上げ、高歌放吟が許された時代だ。二次会に少人数で、トリスバーを渡り歩いた。「トリスを飲んでハワイに行こう」の時代だ。ウイスキーの味に蘊蓄を傾ける金も見識もなかった。サントリーの角などは高嶺の花。アルコールはわいわいがやがやの手段で、じっくり味わうなどは別世界。
 修士の時代に友人に誘われ、スペイン大使館に勤めていた日系ペルー人にスペイン語を習いに行った。外大出のS・坂本さんは授業終わると、その後、お話しをするのが大好きだった。話のつまみに、大使館では洋酒が免税で買えるとスコッチを取り出し振舞った。本物を初めて口にした。生のウイスキーを口に含むと、口中一杯にまろやかな、しかも、いわゆるスモーキーフレーバーの刺戟がすぐ広がり、やがて喉の奥からお腹の中まで、ウイスキーを飲んだという実感がわいてくる。これが本物のウイスキーなんだ。

 朝ドラ「マッサン」は面白く見た。竹鶴政孝がスコッチの味、スモーキーフレーバーを再現したい執念と、鳥井信治郎が理想を掲げるだけでなく社員を食わせられるように販路を拓けとの指示、経営者と技術者の論理のぶつかり合いが一番の見どころだった。愛妻リタに対する戦時中の厳しい外国人への干渉を乗り越え、竹鶴はリタに支えられてニッカウイスキーを興し、スモーキーフレーバーを実現した。このテレビ番組を見て、久しぶりにニッカウイスキー「竹鶴」を買った。確かに、スペイン語教室で味わったスコッチのおいしさを思い出した。
 じゃあ、生協のジョニ赤は何だったのか。多分トリスの味だったのだろう。

(二〇一六・一・十三)

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