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「800字文学館」

くろがね小屋

新田 由紀子

 福島県のほぼ中央猪苗代湖の北に、高村光太郎の詩「智恵子抄」で知られる安達太良山がある。
  あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川
  ここはあなたの生まれたふるさと
 智恵子が『ほんとうの空』という大空の下標高1300mの山懐にあるのが、県営くろがね小屋だ。
 山小屋は登山者にとっての憩の場所。粗末ながらも寝床と食事があれば何もいうことはないが、ここにはとうとうと湯船にそそぐ源泉がついている。大自然の中の素朴な温泉小屋の一夜は、身も心もやんわりと解きほぐしてくれる。
 初めて訪れたのは夏の終わり。高い空の下にリンドウとススキ、アキノキリンソウが季節の移ろいを告げていた。徐々に標高を上げる石ころ道を2時間も歩くと小屋が見えてくる。厚底の登山靴と両手のストックをもてあますような楽な道のりだ。登山客だけでなく、温泉を目当てに訪れる客も多いという。
 小屋は鉄(くろがね)山の断崖を背にして、安達太良山の岩峰乳首山を仰ぐ窪地に建っている。道の先は進入禁止となって硫黄臭が漂い、黄色くただれている。湯はそこから湧き出し、麓の岳温泉の旅館街まで引かれている。源泉の周辺には江戸時代の頃数軒の湯治宿があったとか。人里離れた山の中で自然の恵みに与ろうという人の思いは昔も今も変わらない。
 夕食前の一風呂。5人も入ればいっぱいの内風呂で、自然に相客と話がはずむ。石鹸もシャンプーも使えないが、濁り湯の成分の効果は十分だ。名物カレーの夕食を済ませると、消灯前のひとときを常連客に交わって地酒を味わう。「月に1、2回は体の悪い兄を連れて来るんですよ」。厨房を手伝う客が言う。ランプの明かりの下で、幼児連れの夫婦がむずかる子に折り紙を折って見せている。地図を開いて明日の行程を確かめているグループ客もいる。
 思い思いの楽しみ方で人はくろがね小屋に登ってくる。明日の晴天を祈りつつ、静かに降る星空の下くろがね小屋は発電を止めて眠りにつく。

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