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「800字文学館」

唐招提寺の秋(その1)

首藤 静夫

 唐招提寺の御影堂がピンチだそうだ。雨漏りや地盤沈下で早急な対応が必要との報道がなされている。
 御影堂は、鑑真和上坐像を安置し、東山魁夷画伯の襖絵でも知られる建物だ。これらを他に移して調査・改修にあたるという。和上はよくよく「水」にご縁がある。東山画伯の襖絵にしても渡航時の苦難を偲ばせるべく、大海原に岩礁・波浪が描かれている。
 御影堂は興福寺の建物だったが、明治以降は県庁舎等に活用され、その後ここに移築されたとか。この寺は有名な割には同種の話が多い。講堂は平城宮の一部建物だし、経堂はある親王旧宅の転用だ。肝心の金堂も中古材が多数使用されている。創建当初からずっと、つゝましい経営だったわけで今回の雨漏り騒動もむべなるかなである。

 和上の来日までの苦難と強靭な意志、高まいな精神は有名である。しかし来日後の労苦はあまり知られていない。当時、日本仏教は黎明期のあとの混乱期だった。税逃れのため、受戒もなく僧尼と称する人々が大量に発生、大問題となっていた。そこで正式な授戒制度を入れ、僧籍にある者の秩序を確立するために戒律の大権威、鑑真和上を国を挙げて招聘した。聖武帝の強い希望だった。その聖武帝がわが国の正式受戒者第一号となる。
 だが歓呼で迎えられ、使命を無事果たした和上一行にその後の朝廷と日本の仏教界は冷たかった。あとは自分たちでできるから「どうもご苦労さん」というわけだ。大僧都の位もいつの間にか外され、「大和上」という名誉職だけになった。とどのつまりが、官寺・東大寺から草深い西ノ京への追い落としである。
 和上がどのように反応したかは定かでない。だが弟子僧十数名をはじめ仏師、仏画家、石碑工、刺繍工など多数の部下を抱えて途方に暮れたかもしれない。それでも渡来人の結束と一部日本人の協力で唐招提寺は建設される。質素な作りはその名残なのだ。
 和上自身は金堂の建設を待たずに没し、あとは弟子僧たちに委ねられた。

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