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「800字文学館」

六十年ぶりの苔寺

中村 晃也

「本年七月十六日午前九時半に本証持参のうえご参集ください。当日は写経用の細筆をご用意ください」。西芳寺からの参観許可証である。

「アキヤチャン、長い付き合いなのに二人だけで旅行をしたことはないよね?
 身体が動かせる間に一緒に京都へ旅行しないか? 祇園祭の宵闇を一度見たくて、往復の新幹線と市内のホテルに二泊して二万四千円のツアーがあるので申し込もうよ」。 メールの主は幼稚園から中学、高校、大学と一緒だったT君である。大学も同じ理学部で私は化学科、彼は地球物理の専攻だった。 痩身で理屈っぽいが、非常な物知りである。

 中学の修学旅行に一度行ったきりの苔寺に、電話してみた。「十四日は満員、十五日は休館、十六日はまだ空いています」と担当僧。カラオケのうまそうなよく通る声の持ち主だ。

 当日は朝から雨催い。苔には最適のコンデイションである。定刻に二百人ほどの善男善女が、広い本堂の細長い机に向かって座った。各自に硯と筆が用意されている。後席の外人にガイドが懸命に説明している。「今から経文を写すのです」「オー、ノー!」
 この日は幸い写経はなく、般若心経を三回繰り返した後、庭園へ解放された。「拝観料三千円は高いなあ! 二百人来れば半日で六十万円の売り上げだよ。
 百二十種の苔の管理、雑草抜き、落葉の清掃などの作業や建物の維持管理に相当かかることは疑いないがね」とTがいう。湿気の多いこの場所で、寺院の建物と庭園が何百年も保たれているのは驚嘆に値する。

「苔と言えば、大河内伝次郎が主演した映画『丹下左膳』のこけざるの壺って知っているかい? 徳川家の財宝の隠し場所を記した地図が入っていた壺だよ。あれは苔猿でなくって、後家猿の間違いだそうだ」とT君。

 名苑の雰囲気に浸って感動している最中に、要らぬ知識を吹きこまれ、コケにされたような気分になった。そして何でも教えたがる彼は「口出しスイッチョン」という綽名だったことを思い出した。

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