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「800字文学館」

稔りの秋の松本平

稲宮 健一

 黄金色の稲穂に彩られた松本平を訪れた。現役のころ、一緒に宇宙開発に取り組んだ女性技術者の別荘が安曇野近くの山形村にあり、招かれて家内と一緒に山荘で一日を過ごした。偶然、家内が通っている日本画教室で、同窓であったので、今でもお付き合いを続けている。

 二日目の午後は、安曇野の「いわさき ちひろ」美術館に足が向いた。ちひろは戦後の混乱期に活躍した。幼児絵本の挿絵に短い画家生命をかけた作品が多くの人の記憶に留まっている。ちひろの筆のタッチは微妙な淡い色で表された、画面に滲んで広がる色彩で、枠取りはなく、描かれているより広がりのある構図が見る者の想像力で引き出す。絵の幼児には「お母さん」と訴えるような哀愁が込められている。
 丁度、スタジオジブリの宮崎駿が描く各コマが色と線で隙間なく埋め尽くされているのに対して、高畑勲の画面があいまいさと余白で、見る人の想像力を掻き立てるのに似ている。俳句や、詩の言葉の広がりと同様だ。

 美術館の庭園は広々とした芝生が広がり、その外は色づいた田んぼと、木々、遠くに目をやると、少し霞んだ濃い緑の美ヶ原、穂高連山に囲まれている。その中での一杯のコーヒーはスタバでは味わえない解放感がある。かつて市町村の土地利用は工業団地の切り売りだったが、ようやく美を呼吸できる場所の価値に気が付いてきた。

 帰りのスーパーあずさは甲府の手前で、鹿と衝突、鹿が列車に巻き込まれたか、棚から棒が落ちるような音が響き、三十分程停車した。ようやく走り出すと、社内案内が宇都宮線で人身事故、また川崎でも。新宿経由で戸塚には戻れない。横浜線の各停で居眠りをしながら帰宅した。

 地方再生の呼び声が高いが、今までのように生産に目をやるだけでない、今や、脱都会のゆったりとした生活空間生まれてきている。大都会の詰め込みで人生に疲れた人々が地方の豊かさが享受できるようになれば、列車を止めるようなことは減るのではないだろうか。

(二〇一五・十・八)

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