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「800字文学館」

リチャード三世遺骨発見その後

安藤 晃二

 十五世紀、イングランドの王権を争いランカスター家のヘンリー・テューダーがヨーク家出身の国王リチャード三世に挑戦したのが薔薇戦争である。最後のボズワースの戦い(一四八五)で戦死したリチャードの遺骨が、三年前レスター市の駐車場から発見され、史上最大級の考古学的発見と騒がれた。この戦いでプランタジネット朝は終焉、後にローマに抗って宗教改革を断行する、ヘンリー八世、エリザベス一世に名高いテューダー朝の御世が訪れる。ボズワースの戦いこそ「関ケ原」、英国史の分水嶺となった。

 レスターか、ヨークか、リチャード三世再埋葬地論争が決着し、その遺体は、去る三月、レスター大聖堂に葬られた。王族、大主教、三万五千人の市民と外国人訪問者が白薔薇の紋章を胸に参列する中、馬上の、鎧兜の騎士二名が樫の棺を載せた馬車列を大聖堂に先導した。その騎士の一人が、若き米人、遺骨発掘作業にも参加した中世軍事史研究者だ。また興味深い偶然は、リチャードの遺骨確認用DNA提供者、カナダ人指物師、イプセン氏が、ご先祖の棺製作の栄誉に預かったことだ。

 その米人学者が語る。「リチャードの槍が、肉弾戦でヘンリーを仕留めていたら、いまの米国は存在していない」。即ち、新教の英国は出現せず、更には、国教会の弾圧を逃れ、信教の自由を求める清教徒達を乗せたメイフラワー号も新大陸に向かう事はなかったに違いない。このセレモニーは、一見米国とは無関係に見えるのだが、米国の由来に深く繋がる事なのだ。

 リチャード三世はシェークスピアの出現により「二度殺された」と云われる。当時の為政者達におもね、世に「悪の権化」のイメージを植え付けた天才の戯作者振りもさることながら、その後四百年間の歴史の怠慢許すまじ、とばかりに、リチャードの真実の救済と正義の実現を標榜して、前世期初頭に「リチャード三世協会」が発足した。現在、同協会の会長は、女王の従弟に当たるグロースター公爵が務めている。

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