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「800字文学館」

蝉しぐれ

稲宮 健一

 この夏の暑さは厳しかった。暑さと共に一斉に蝉が鳴き始め、八月の後半に急に涼しくなり、一斉に鳴き止む。八月十五日を境に丁度これと同じことが起きる。終戦の日が近づくと、戦争は悲惨だ、再び戦火を起こしてはならない。そして、戦争の惨状を呼び起こし、後世に伝えようと、特に今年は七十周年とあって、その活動はかしましい。

 確かに戦争は再びあってはならないし、悲惨な殺戮はご免だ。しかし、悲惨さだけが伝えるべき総てではなく、なぜ泥沼の戦争に突き進んだかの群集心理の背景を説く論調は少ない。がその方が大切だ。

 ご維新以前には西欧との繋がりはほとんどなかった。文明開化の呼び声で西欧の産業革命以降の科学技術の成果に目を奪われ、その成果を取り込む運動になった。その西欧では中世に聖書の創世記が唯一の真理として、これに反する考えは一切許さなかった。しかし、長期間かけた天文の観測は精度の高い数値の裏付けをもって、教会のいう真理でない、自然観測を根拠とした別の真理を科学者は主張して、それを証明した。長い時間をかけ、数世代にわたり古い真理を論破して、事実を追及する精神構造を西欧社会は確立していっていた。維新の初め広く会議を興し、万機公論に決すべしと意気込んだが、昭和の初めには、広く公論を交わす場がなくなっていた。

 お家大切、お城を守れ。侍が藩主に忠誠を尽くす姿は大衆受けする筋であり、歌舞伎に、講談に、映画に、テレビの主題になる。お城を守るため侍は議論を闘わすが、時々短絡的な刀が出てきて、思慮が深まらない。ではお城を守ってどうするのか。侍は忠君を尽くすが、太平のころの藩主は無能が多かった。

 戦争の前の昭和では、言論が抑圧され、技術の成果である機械的な戦力を過信して、戦争してでも達成すべき安定した国際的に通用する世界観を欠いた国の行方が悲惨な戦争を招いた一因ではなかろうか。付近に七十年遅れで、似たような状態の国々があるのが気になる。

(二〇一五・九・一〇)

参考:船中八策では、「万機宜しく公議に決すべき事」となっています。

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