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「800字文学館」

「蛍の光」

安藤 晃二

「エリーさん」のお蔭で、世はスコットランドブームだと言う。この際と思って、オールドラングザイン(Auld Lang Syne)をカラオケで、原語でトライした。日本語で「蛍の光」では、場の雰囲気から身も蓋もない。歌ってみてパニック状態に陥った。あの独特の情感と、琴線に響く音楽に包まれることを想像したのだが、心を込めて歌い上げる余裕があらばこそ、早いテンポに追い立てられ、パニック状態に陥った。こちらが正調なのか。まるで、軽快な行進曲か、数え歌みたいだ。内容は旧友との酒の歌であるらしい。汗顔の至りで鉾を収めた。
 その昔、ニューヨークでのこと。この歌が誘う忘れ難い思い出がある。帰国する日本人E氏の送別会に顧客の米国人数名を招いての宴であった。最後は笑顔と涙、全員聞き慣れた「蛍の光」の抒情性そのままに、この歌が響き渡った。

 鉛快削鋼の材料供給先であるこの顧客は世界最大級のベアリングメーカー。E氏は日本の特殊鋼メーカーの米国事務所長であり、私の勤める商社が販売を担当していた。そのメーカーは世に有名な「戦後最大の倒産劇」から立ち直った会社である。ニューヨークの隣のコネチカットにあるその顧客の工場とは、毎月訪問をする関係であった。特殊鋼の金属加工、それは冶金学の真髄を覗く世界である。技師長フー氏は台湾出身で、日本に留学後、米国で博士号を取得した冶金の専門家、この大会社で重責を担う。中国の大人の風格そのままに、日本側のメンタリティを良く理解し、率直であると同時に日本人をかばってくれた。一方アイルランド系の大男、生産関係の責任者は厳しく、発注、遅延等に絡む難題で締め上げられる。そんな時、フー氏は、我々を見送りがてら、こっそり内情を日本語で解説してくれたものだ。

宴の大団円、「さよなら」の歌を歌おう、と声が上がる。中国、アイルランド系の米国人と日本人、仕事の思い出と共に心を一つに盛り上がった。そこには、歌の真実を身体で知るスコットランド人はいなかったのだが。

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