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「800字文学館」

弘川寺の迷ガイド

新田 由紀子

 富田林の駅を出た金剛バスは、街を抜けると長い橋で川を渡り、車体を揺すって葛城山麓の丘陵を走る。終点「河内」に客を一人降ろすとエンジンを止めた。
 弘川寺へは、つま先上がりの坂道を登る。寺をいただくように集落が屋根を連ねている。石段を上がると端正な本堂が迎えてくれた。ふと、左手の鐘楼に腰掛けている初老の男が目に入った。帽子をかぶり紙袋を抱え、足をぶらつかせて人待ち顔だ。客は、はるばるやってきたこの寺で、西行法師の墓に詣で、桜山も歩いてみたいと先を急ぐ。
 本堂の裏を上がると、木々に覆われた塚の前に墓石があった。簡素で美しい。さらに登った小山の上で、遠くに光る大阪湾を眺める。小一時間もして境内に戻り、歌碑の前で首をひねっていると、男が近づいてきた。「どうです。読めますか」。こんなところまで訪ねてくる身で、歌のひとつも読めないのは恥ずかしいが、こちらの言い訳もきかずに、男は歌を詠みあげた。《時じくに 松風のおとすみひゞく 西上人のおくつきどころ》
 その勢いで、喜色満面、紙袋をゴソゴソやって山内にある歌碑のリストを見せる。おまけに寺の案内まで始めた。「『三鈷の松』は、ほら、葉が三本だ。今日は西行記念館は閉めているけど、庭園拝観はできる。和尚さんを呼んできますよ」。こちらはバスの時間が気になる。すると、「あと15分でしょ。近道があります」と、寺を降りて先に立つ。歩きながら取り出したのは「聞きなし」という鳥の声の一覧表。「ツキホシホイホイ」「ボロ着て奉公」「チョチョジィ、焼酎一杯ぐいー」もう、大得意だ。あげくのはて、数字表を見せ、何やら数字を足して引いて、とやると、ズバリ年齢をあてられた。もうこちらは鼻白んでバスに逃げ込む。見ると、男は身をひるがえして、寺に向かうカップルを追いかけている。
 酔興と風流を気取った旅が思わぬ待ち伏せに合ったものだ。発車待ちの車内に風が鳥の声を運んでくる。チンチーチョロリリー。ええっと、あれは。

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