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「800字文学館」

言語道断

斉藤 征雄

「生きざま、いろいろ」という一文を書いたら、Hさんから「生きざまという語は人によっては抵抗がある言葉かもわからない」とのコメントをいただいた。「ざま」という言い方には「あのざまはなんだ」というようなネガティブなイメージがあるから、ポジティブな「生きる」に「ざま」をつけるのはなじまないという趣旨である。
 確かにそうかも知れないと思う。しかし一方で「ざま」が無いと「ぶざま」になるから「ざま」がネガティブとばかりは言えないという気もする。
 語感は人によって異なるようだ。
 関西人はある種の親しみを込めて「アホ」というが、関東人は「アホ」は「バカ」よりもっとひどい「バカ」のことだと思っているから、言った方の気持ちと言われた方の気持ちには大きなギャップが生じることになる。

 言葉は人間にとって意思疎通のためになくてはならない手段ではあるが、言葉が本当に自分の気持ちを相手に伝えているかといえば危うさがある。言葉はあくまで媒介手段だから間接的でしかない。
 言葉を知らない赤ん坊が母親を見つめる表情には万感の思いがこもっている。母親はそれを言葉を介さずに感じとる。二人の意思疎通には言葉による制約はない。しかし人間はそのうち「好き」とか「愛している」とかという言葉を覚えて、本来豊かさで溢れる気持ちを、言葉のもつ限られた意味の枠の中へ無理やり封じ込めることに慣れてしまう。
 だから、なんとしても自分の気持ちを相手に伝えたいと本能的に感じた時には言葉を使わない。目を見つめるとか、そっと手を触れるとかの方が、気持ちを直に相手の心に伝えるのに有効であることを知っているのである。

 言葉が真実を伝える手段として万全ではないとするのが仏教である。「言語道断」という言葉がある。今は、もってのほかだという意味で使われるが、もともとは仏教用語である。「言語道を断つ」と書くこの言葉は、仏教の奥深い真理は言葉で説明することはできないことを意味している。

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