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「800字文学館」

聞こえぬ笛の音

藤原 道夫

 4,5人で雑談をしていた時、何かの拍子にO夫人が詩人キーツの詩に「聞こえてこない笛の音はとても美しい」という一説がありますよ、と話し始めた。ちなみにO夫人は大学で英文学を専攻し、某大学で教鞭をとった経験のある方。私がその詩に興味を示すと、翌日キーツの詩集を届けて下さった。
 古代ギリシャの甕を讃える歌(2)の出だしにこうある。
 聞こえてくる笛の音は甘く美しい   聞こえぬ笛の音はさら甘くに美しい
 キーツは多くの古代ギリシャの甕を眺めていた時に笛を吹く少年の絵図を見つけ、この詩を着想したらしい。絵から実際の音よりもさらに甘美な音を聞きとるとは、さすがに詩人だ。

 この詩を読んで、私はローマ国立博物館の一つアル・テンプス宮にある古代ギリシャの「ルドヴィシの玉座」の外部左側面に彫られた「笛吹く乙女」の像を思い出した。裸体の若い女性が座布団に腰を下ろし、足を組んで口元から二本に分かれた縦笛を吹くポーズをとっている。初めてこの玉座を見た時、ただそれら浮き彫りの美しさに打たれてひたすら眺め入った。

 アル・テンプス宮には多くの優れた古代ギリシャ・ローマ時代の彫像が展示されている。ゲーテがローマ滞在中に大変気に入り、コピーを求めてワイマルの自宅に飾ったヘラ(ユノー)もここにある。アル・テンプス宮には三度にわたって足を運んだ。数年前最後に訪れた時には殊更に丁寧に見学し、展示品の写真集を求めた。

 キーツの詩を知って以来、「笛吹く乙女」の写真を眺めながらようやく笛の音が気になってきた。この笛はどんな音を奏でるのだろう。聞いた音をもとに、像から実際よりも甘美な音を聞きとれるようになれるだろうか。キーツの詩は「心で聴かなければ美しい音は聞き取れない」ことを示唆しているようだ。凡人が心で音を聴きとる域に達するには、音を何度も聴いて感性を磨く必要があろう。現在の環境でそれが可能なのか、私はとても難しいように思う。

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