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「800字文学館」

ダンバー説

池田 隆

 夕食後、居間で寛ろぎ始めた頃に、決まって電話が鳴る。妻が受話器を取り、隣室に出て行く。今日は昼間に会った筈の娘からのようである。
 テレビを点けてみるが、嫌いなバラエティ番組ばかりである。直ぐに消す。あまり気分は乗らないが、読みかけの脳科学の啓蒙書を開く。霊長類研究で著名な心理学者のダンバーの成果を説明する章からである。

 サルの社会も人間同様に小集団社会(スモールワールド・ネットワーク)を構成している。そのサル集団では安定した絆を保つために、「毛づくろい」をするとのこと。人間社会では会話がその行為に相当するという。
 サル集団にせよ、人間社会にしろ、構成員の数が増すほど、相互の関係が複雑になり、安定した関係を保つためには様々な創意工夫を行う脳の働きを必要とする。ダンバーは進化程度の異なるサルについて、集団の構成員数と脳の大きさに直線的な相関関係がある事を突き止めた。人間の場合に当てはめると、約150人となる。

 成程、我々が出す年賀状の平均枚数もほぼその程度である。ただ読んでいて疑問も出る。
 昔より女性の力で身近な人間関係をうまく保ってきた。身の安全や種族保持のための直観力も女性の方が鋭い。文明進化仮説としての「おばあちゃん効果」もある。
 たしかに人間では男性に比べ、女性の会話量は圧倒的に多い。しかし女性の脳の大きさは、平均して男性より10%ほど小さい。ダンバー説も十分とは言えない。
 生来訥弁の私は、「剛毅木訥仁に近し」を旨としてきた。それにしても分が悪すぎる。嗚呼、「剛毅木訥サルに近し」か。
 小一時間も経った頃、妻が部屋に戻ってきた。やや皮肉を込めて、「よくそんなに喋ることが有るね」と。すかさず、「貴方の方だって、ペンクラブでは四時間もの会合の後に、続けて二次会、三次会と話題がよく尽きないわね」と切り返される。
 次に飲んだ時には、「脳の強化のために、帰りが遅くなった」とでも言ってみるか。サル智慧かな。

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