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「800字文学館」

豆相人車鉄道のこと

清水 勝

 今日、小田原から23分で熱海に到着しました。熱海駅前に保存されている熱海鉄道の蒸気機関車を見て、ふと、昔は熱海って随分不便な所だったのではないかと思いました。
 何せ、明治22年に開通した東海道本線は国府津から箱根の山を避けて北に迂回して沼津に行っていたんですから。温泉保養地とはいえ熱海に来るのは大変だったのです。先ずは国府津まで鉄道で来て、それから小田原までは馬車鉄道、その後は海沿いの険しい道を駕籠に乗るか歩くしかなかった訳です。
 これでは困ると鉄道を敷くことを考えました。しかし、急な坂道だけに鉄道馬車は無理、軽便鉄道は経費が掛かり技術も要求され難しい。そこで考え出されたのが人車鉄道です。鉄道馬車の馬に代わって人間が押すというものです。明治29年3月に全線が開通し、小田原・熱海間25、6キロを駕籠で6時間かかっていたところを4時間で熱海に着きました。車両には六人が乗り、それを2~3人の車夫が押していたのです。急な上り坂は乗客も降りて押したといいます。
 その後、明治41年に蒸気機関車を使った軽便鉄道になるまでの12年間は、こんなのんびりした鉄道がヒイヒイと言いながら走っていたわけです。その名も伊豆と相模を結ぶことから『豆相人車鉄道』と呼ばれていました。
 運賃は50銭。今の価格に換算すると1万3千円程になります。高いといえば高いようですが熱海に遊びに行くのですから、まあこれぐらいは払ってもいいのでしょう。
 この鉄道には大正天皇が皇太子時代に乗られています。国木田独歩や坪内逍遥の作品にも出てきますが、有名な尾崎紅葉の『金色夜叉』に記述がないのは残念です。
 この人車鉄道は日本人の知恵で生まれました。初期投資が少なくて済み、人件費が安かったから成り立つもので、蒸気機関車投入までの繋ぎとして、全国に29路線もありました。
 この後、この豆相人車鉄道が走った熱海街道(根府川往還)を歩きます。

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