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「800字文学館」

銀製の猫―西行と頼朝の出会い

大月 和彦

 文治二年(一一八六)頼朝が鶴岡宮に参詣すると,一人の老僧が鳥居付近を徘徊しているのが目にとまった。怪しんで名を糾させると、佐藤兵衛尉憲清法師であり、今は西行と名乗っていると答えた。

 頼朝は、その夜御所に招き入れ、歌道と弓馬のことを尋ねた。
 西行は、「弓馬のことは在俗の頃、仕方なく家風を伝えましたが,出家した時、受け継いできた兵法の書を燃やしてしまいました。罪業の原因となるので全て忘れてしまいました。
 詩歌は花月に感動する時に作るばかりで奥深いことは知りません。弓馬についても歌道についてもお話申すことはできません」とはぐらかした。
 が、せがまれたので弓馬については夜通し話した。
 翌日、引き留められたにもかかわらず辞去し、奥州に向かった。
 頼朝はお礼に銀製の猫を贈った。西行は受け取ったものの、門の外で遊んでいた子どもに惜しげもなく与えてしまう。

 鎌倉幕府が編纂した史書『吾妻鏡』にある故事である。

 この出会いの場面で頼朝は、西行を丁重に処遇している。一方、西行は心を許して話をせず、はぐらかす様子が読み取れる。頼朝からの贈り物もすぐ、子どもにくれてしまう…。

 前年に平家を滅亡させ、義経を探索中だった頼朝は、当時、朝廷と奥州藤原氏との関係は微妙だった。西行は、鳥羽上皇に仕えたことがあり、かつ、奥州藤原氏の一族である。三年後に頼朝が奥州藤原氏を討滅したことを考えると、この場面は興味深い。
 権力者の歓心を買おうとしないこの振る舞いは、脱俗した歌人の心意気なのか。冷酷で猜疑心の強い頼朝が相手だけに、不気味な場面だ。

 西行のこの旅は、東大寺再建の費用勧進のため奥州へ赴く途中で、たまたま鶴岡宮付近を歩いたとされている。

 一方、この出会いは偶然ではなく、奥州での砂金調達や運搬を保証してもらうため、頼朝が参拝する放生会の日を狙った計画的なものだったという説が有力になっている。
大仏再建のため、頼朝の力を利用した西行が一枚上手だったのだろうか。

(15・2・3)

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