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「800字文学館」

ロシアへ渡った日本人(2)(二葉亭四迷たち)

都甲 昌利

 1873年(明治6年)に東京外国語学校が設立され、日本におけるロシア語教育が始まった。学生たちに最初にロシア語を教えたのは誰か。もちろん日本人ではない。メチニコフというロシア人である。

 彼はサンクトペテルブルクで生まれ裕福に育ったが、社会主義に傾倒し欧州各地を転々とする。彼がどうやって日本へ来たか。それには大山巌(当時陸軍大佐・30歳)との邂逅があった。スイス・ジュネーブに留学していた大山巌とメチニコフは同じ下宿で会う事になる。メチニコフが日本への強い憧れを持っていることを大山は知った。明治政府の木戸孝允らの斡旋によって日本に来ることになり、東京外国語学校に職を得てロシア語を教えることになった。

 教え子には自由民権運動の指導者、村松愛蔵やロシア文学者の黒田義夫らがいた。黒田はペテルブルグ大学でロシア語を学び帰国して母校の教師となり、二葉亭四迷らを教えた。日露戦争で軍神となった広瀬武夫もペテルブルグに留学、黒田義夫と同時代だったというのも興味深い。
 当時の授業のやり方は印刷した教科書などなく全て手書き。教師が話した内容を書き取りまた暗唱するという授業内容だった。詩の朗読形式が主流を占めた。いわば、耳から入ったロシア文学であった。言文一致という形式はここから生まれた。二葉亭四迷が言文一致で翻訳したのはツルゲーネフの『あいびき』と『めぐりあい』であった。写実主義小説『浮雲』は言文一致で書かれ日本の近代小説の元祖となる。

 外語の卒業生が次々とロシアへ渡る中、二葉亭四迷も1908年朝日新聞の特派員としてペテルブルグへ派遣された。しかし、帰国途中ベンガル湾上で客死。享年45という若さだった。
 彼の墓は巣鴨の染井墓地にある。墓碑には「長谷川辰之助の墓」と彫られ右肩に小さく二葉亭四迷と刻まれている。ベンガル湾上で死去したため、遺体はシンガポールで荼毘に付され市の共同墓地にあるというが、訪ねたことはない。   

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