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「800字文学館」

乗ってからでは……

平尾 富男

 この秋、新車購入を決めた。懇意にしているセールスマンの口車に乗ってしまったのだ。十数年乗り続けた車には愛着があったし、買ったときには最後の車として乗り潰す積りだったのに。
 この知らせを母親から聞いた子供たちから不服申し立ての電話が掛かってきた。
「お父さんもお母さんもこの先何年運転できるか分からないのに。それに今の車だって故障もせずに快調に動いているんでしょう」。電話の向こうの娘は半ば興奮気味だ。
「新しい車に乗るのは気分がいいし、多分これが新車購入の最後となるんだ」と反論した。
 半月後の納車が待ち遠しくてならないのに、そんな気分に水を差す娘や息子の抗議電話に怒りを覚えた。内心では、この年齢になったら「乗り換えられる」のは車しかないのだ、と言う言葉を押し殺していたのだ。
 販売店員の口車とはいえ、エンジンと電気モーターの二つの動力源を有するハイブリッド車だから、ガソリン代を節約できるのと排出ガス低減というのが魅力だった。実際に購入を決めた時には、オプションに何を付けるとか、色は何色にするとか、ウキウキとした気持ちの昂揚があった。TVコマーシャルでも「車選びは恋愛だ」と言っている。
 そうは言っても、夫婦二人だけの我が家では、普段運転席に座るのは家内の方だ。出先でお酒を呑む可能性がある時や長距離運転が必要でない場合は、車の名義人は運転をしない。だから、購入に際して家内がやたらに口を出すのには閉口した。
 我が家は、急行停車最寄り駅からは歩いて二十分以内、鈍行停車駅からなら十分だが、この十年は出先からどんなに酔って帰っても家内に駅まで車で迎えに来てもらうことはない。拒否権発動に遭うのが面白くないのと、運動不足解消のために歩くことを自分に課しているのが主な理由だ。
 果たして車を購入する必要があるのか、この車で良かったのかと、契約後の試乗中に疑念が湧いたが、同時に婚約中の昔に色々迷ったことを思い出した。

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