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「800字文学館」

ロシアに渡った日本人(1)「光太夫とエカテリーナⅡ世との出会い」

都甲 昌利

 一介の船頭、大黒屋光太夫がロシアに渡ったのは江戸時代である。1783年(天明3年)伊勢白子(現鈴鹿市)から江戸へ向かう途中遠州灘で嵐に遭い、破船、アリューシャン列島の小島に漂着した。江戸末期の鎖国の世の中、ロシア語も話せないで、絶望的な状況であった。宇宙空間に放り出された心境だろう。
 現地でロシア人の毛皮商人と遭遇しロシア語を習い帰国の機会を待った。ところが商人を迎えに来たロシア船も難破してしまう。自力で船を造りカムチャッカ半島から、オホーツク海を渡り極寒のシベリアを走破しやっとのことでイルクーツク政庁に着く。これで帰国できると思ったが願い叶わなかった。たまたま学術研究のため当地に来ていたフィンランド人のキリル・ラクスマンに会い彼の計らいで、帝都ペテルブルグに赴き女帝エカテリーナⅡ世に拝謁する。

 一体なぜロシアは一介の船頭である日本人を暖かく迎えたのであろうか。理由は二つ考えられる。一つにはロシア人の国民性。困っている人を絶対に助ける。事実、光太夫ら食料、金銭の援助があった。もう一つには当時ロシアはアラスカまで伸長するうえで、物資補給のため対日交易の突破口を見出そうとしていたこと。そのため日本や極東の情報提供者として彼らには必要であった。ロシアのみならず西欧諸国は光太夫の情報は手が出るほど欲していた。ペテルブルグでは「光太夫争奪戦」が展開されたそうだ。光太夫その者の存在が大きい。彼は見識、性格で人々を引きつけ常に一目置かれていた。女帝の前でも物怖じしなかったという。

 しかし、彼の心の中には帰国したいという望郷の念があった。エカテリーナも故郷のドイツを捨てロシア皇帝に嫁いだ女性である。気心が一いたのかもしれない。帰国の許可が下りる。漂流から実に9年半の月日が流れていた。
 帰国後、幕府から簡単な取り調べを受けたが、江戸・小石川に居宅を貰い生涯を暮らした。

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