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「800字文学館」

ジェームズ夫人のBB

志村 良知

 緑滴る田園の中に蜂蜜色の石造りの小さな町が散らばっているイングランドのコッツウオールズ地方。その北端で、藁ぶき屋根も散在するチッピング・カムデンの町の真ん中のBBに部屋の有無を問うた。
 出てきたのは、ブルネットで長身色白のいかにも英国女性らしいご婦人だった。渡された名刺にジェームズ夫人のBBとある。車をどこに停めたらよいか尋ねると、裏庭だが説明するから一寸付いて来いという。
 建物の中を抜けると、鰻の寝床のように奥行きの長い裏庭で、木々や草花と共に夫人の趣味だという陶芸窯があり、製作中の作品、原材料などが山のように置いてある。その裏庭の外れまで案内してくれ、この景色を覚えておいて、ここに停めなさい、という指示。たしかに裏庭に面した道路に回り込むには町外れまで行かねばならず、どこがジェームズ夫人の庭なのかは教わっておかないと判らないのだった。

 翌朝、早い時刻に部屋に電話があり、とても良い天気だから朝食前に散歩にいってらっしゃいという薦めがあった。歩くのは好きなので、すぐそれに応じ、着替えて下に降りると、ジェームズ夫人は、町の観光協会発行のパブリックフットパス地図を出してくれ、朝食はいつでも出せるから時間を気にせず歩いて来いという。
 1999年の口蹄疫の騒ぎの前で、パブリックフットパスは観光客にも開放されていた。
 8月というのに肌寒い位の気持ちの良い朝であった。道は牧場から牧場へ、羊の脂ぎった毛が絡まった柵を越えて続く。柵を越える場所にはドアがあり、人間なら初めてでも解錠できるが、羊には開けられない仕掛けがしてある。針金製だったり、木片が噛み合うものだったり、紐を引っ掛けるものだったりするが、どれも、もし羊に知恵がついたなら「人間はここまで俺たちをバカにしていたのか」と怒るような簡単な仕掛けである。
 起伏のある田園風景が遥か彼方まで広がる。草原のそよ風が木々の葉を揺らす。lovely dayの始まりであった。

注;
BB;Bed and Breakfast ;宿泊+朝食の旅人宿;概して小規模で日本の民宿の概念。
パブリック・フットパス:私有地の牧場などを通っている歩行者用の通路。一般に通行可の看板があれば、観光客も入れる。但し、指定の通路から逸脱してはいけない。非常に古い習慣らしい。

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