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「800字文学館」

最後の電話

濱田 優(ゆたか)

 胸ポケットの携帯が細かく震えた。難儀な病を養っている先輩からだ。
 他用を済ませると、彼はこう切り出した。
「最近病室の白い天井を見上げていると、過去のいろんなシーンが浮かんでくるんだ。……これまで回想を記(しる)す気なんて起こらなかったのに、書いておこうか、と思ったりしてね」
 この心境の変化をどう受け止めたらいいのか、判断に迷ったけれど、当人が生きてきた証を残したいという希望を持つことはいいことだ。
「ぜひ書いてください。思い出の断片でも、記憶のメモでも、何か書き留めてもらえたら、後はぼくらが協力してまとめますよ」
 勃興期の石油化学会社に入った先輩は、石油危機をきっかけに出向してアジアのエネルギー問題に取り組み、続いてアジアの科学技術協力組織を立ち上げ、人材育成に大きな貢献をして顕彰された。
 傍目には、彼は時代の変化を深く読んで新しい道を開拓したように見えるが、実際は必ずしもそうではない。例えば、エネルギー危機の最中で原油価格が高止まりしているときに、彼の関心はもう次のステップに移っていた。
「最近の新聞を見てみろ。〈エネルギー〉の文字が激減しているだろう。もうすぐ潮目が変わるぞ」と彼は言う。
 そんな単純なことで判断していいのか、と私は疑問に思った。が、三ケ月もすると原油価格は下がりはじめた。
 彼は自分が信じたことをすぐ行動に移すタイプで、時に周囲と摩擦を起こす。だからエピソードの多い人である。先輩がことの表裏の顕わにした回想録をものにしたら興味深い読み物になったに違いない。
 それから十日後、突然同期の仲間から先輩の訃報を聞いた。信じられなくて奥様に電話で確かめ、幻になった回想録のことを話すととても残念がられた。うちでは外のことは殆ど話してくれないので、是非読みたかったと言われる。
 葬儀ではお顔も拝してちゃんとお別れしたのに、今も携帯が震えると一瞬先輩からの電話ではないかと思い、送信者の名前を確かめる。

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