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「800字文学館」

私はフォルトゥーナ

川口 ひろ子

 私の所属するモーツァルトのファンクラブ「モーツァルティアン・フェライン」は同人誌を発行している。編集長は、元銀行員で駐在先のニューヨークに永住を決めている熱烈モーツァルティアン・A氏だ。

 A氏から対談を希望するメールがあり、質問状が送られてきた。
 入会の動機。
 モーツァルトの最大の魅力。
 高度成長時代のサラリーマンとモーツァルト、その他8問。
 音楽を聴くのが好きなだけ、音符も読めない私であるが、10年前からフェラインのホームページにブログを掲載している。モーツァルトと共にある日の喜びを語る「フォルトゥーナの音楽日記」。フォルトゥーナは幸運の女神の名前で私のハンドルネームだ。
 彼はこれを読んでいてくれたのだ。その中から興味のあるテーマを選び、自分の音楽体験などを交えた質問表を送信、私が答えて誌上対談が出来上がる、という流れだ。
 来訪者が少なくどうにも冴えない私のブログを、このように精読してくれている方が海の向こうにいたのだ。彼とのコラボレーションは快調に進み、「季刊モーツァルティアン」は予定通りに刊行された。

 出来上がった対談を読み驚いた。これは私の履歴書だ。
 物を持たず、多くを語らず、世の片隅で静かに朽ちて行く。そんな生き方が理想で、自分史など決して書くまいときめていた。それなのに、意外なところから別の自分が姿を現した。
 特に、高度成長期の会社生活の部分は、A氏の巧みな誘導尋問に導かれて思い丈を語っている。激しい競争の中で身も心も疲れ果て、週末には宗教に縋るように1日中LPレコードを聴いていた。心に響いたモーツァルトの魅力を、精一杯語ったつもりであったが、彼は、不器用な私の生き方そのものを聞き出しているのだ。

「フォルトゥーナの音楽日記」は、現在も月1回の更新で発信中だ。
 書き手は、ひっそりとした暮らしを望んでいながら、目立ちたい気持も抑えがたく、ふらふらと時空を漂うフォルトゥーナである。

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