作品の閲覧

「800字文学館」

オリエント急行の20分の旅

新田 由紀子

 30年も前のある冬のこと。欧州は大寒波に見舞われ、オーストリアのウィーンでは石畳みの街路にアルプスおろしが1日中氷の粒を飛ばしていた。
 М子が午後のオリエント急行でパリへ立つ日だった。ウィーンにいるY子夫妻を訪ねて、M子はふらりと日本からやってきて3か月を過ごした。「ウィンナコーヒーもソーセージも、白ワインも堪能したわ」。次は花のパリだという。幼児を抱えたY子は旅どころではない。商社員の夫は東欧諸国に出張して週日は帰らない。留守を預かるY子は身軽なМ子がうらやましい。今日は駅まで見送り、旅立ちの気分を味わいたい。子供を寝かせつけてМ子のスーツースを持った。タクシーは二人を乗せてウィーン西駅へと向かう。
 列車はすでにホームに入っていた。緑色の車体が着ぶくれた乗客をのみこんでいる。М子はステップをあがってコンパートメントに向かう。荷物を渡しそびれてY子が続く。「お世話になったわね。明日の朝はクロワッサンとカフェオレよ」。М子の声がはずむ。「食い気もいいけど、いい男でも見つけたら」とみると、列車は動き出した。発車のベルはない。タラップのドアは押しても引いても開かない。加速する列車にY子は悲鳴をあげる。車内を走って車掌を見つけた。「次の駅はどこ」と、身ぶり手ぶり。「リンツ。2時間」と車掌が肩をすくめる。「私は乗客ではない。幼児が一人で家に」。この言葉に彼の反応は早かった。真剣な目でうなずくと、メモを入れた筒を通過駅に投げる。
 いつのまにか深い雪をかぶった森の中を走っている。山間の駅で列車は臨時停車した。窓には鈴なりの顔。急病人か妊婦か、身一つで線路に降りる東洋人の女。小さく手を振るМ子を乗せてオリエント急行は警笛を響かせて雪の中を消えていった。Y子は車で西駅へ送られる。凍てついた街をどう家まで帰ったか覚えがない。子供は無事に眠っていた。2週間後に夫妻のところに罰金納付書が舞いこむ。オリエント急行の20分の乗車賃と雪のウィーンの森のドライブが高くついたのはいうまでもない。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧