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「800字文学館」

江差の菅江真澄

大月 和彦

 北海道渡島半島にある江差の町は、江戸時代に北前船によるニシンや檜の交易が盛んにおこなわれ、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほど賑わった。

 天明8年(1788)7月に松前に渡った真澄は、ここを拠点に蝦夷の南部各地を探訪した。小舟に乗り、磯辺や山道を歩いて西海岸の霊場太田山に向かい、途中のアイヌや和人の暮らしぶりを記録している。
 江差にも寄った。「ここの町は富裕な人が多いのであろう。家々は栄え、船もたくさん入江に入って賑わい…坂道の途中に金色で姥神と書いた鳥居が高く立っている…」と書く。
 真澄は、江戸初期に創建された法華寺に甲斐から来ている日正上人を訪ね、もてなしを受けた。
「本堂の天井を仰ぐと、龍が頭を正面にさしあげて、三間にわたってわだかまっている絵があった。これが、みやこの霞樵が七日間身心を清めて清水寺にこもり、たけのこを筆に造って描きあげたものを、ここにおしているのである」と記している。
 上人が造った豪勢な別宅や庭園を案内してもらい、ここから見た江差の浜辺や漁師の家、島などを、名所松島のようだ評している。
 坂の途中にある正覚院という山寺にも訪ねて、諦観和尚と語り合う。坂の上から見ると磯辺近くの弁天島をはじめ遠くには奥尻島が見える。この島には時化で避難する船のために米、鍋、火打箱が用意してあることなども聞く。

 この一月、江差に行ってみた。海岸段丘に造られた灰色の町には当時栄えた豪商宅や寺社が残っていた。3万人といわれた人口は9千人を割っている。JR江差線は5月には廃線になるという。

 高台にある法華寺へ行く。石段を登ると広い庭園、荘重な本堂など大寺院だ。蝦夷の僻遠の地になぜこんな豪華なお寺が造られたのか。
 住職夫人に本堂を案内してもらう。天井の黒ずんだ絵は池大雅の作品だという。真澄の日記に「霞樵」とあるのは大雅の雅号だったのだ。

 物資の交易だけでなく、都との間で人や文化の交流が盛んだったことに驚かされる。

(14・2・13)

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