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「800字文学館」

高齢転居

池田 隆

 十日前に横浜の郊外より東京都心へ転居した。後期高齢者にとっては、それなりの決断と工夫を要した。
 間借していた両親宅から子供三人を引連れて、一戸建てに越したのは三十年前のことである。自分の自由になる家は魅力的であった。子供たちは各自の個室を喜び、私も緑の多い周辺の散策や庭いじりに余暇を過ごす。通勤や通学にそれまでより小一時間も長く掛ったが、喜びの方が勝っていた。
 時が経ち、子供たちも巣立っていくと、彼らの部屋は不要不急品の倉庫となる。数年前に心臓病を患ってからは、起伏の多い土地柄を辛く感じ、庭木の手入れも思うに任せなくなった。それでも緑の多い、慣れ親しんだ家で私は一生を終える気でいた。
 ところがこの夏、妻に癌が見つかり、都心の病院へ通院するはめになった。往復の四時間が吾々の心身に大きな負担となる。
 私と妻、各々の十年後の生存率を七〇%と楽観的に仮定しても、今後十年間、両者が一緒に暮らせる確率は高々五〇%である。その間に新たな支障が生じ、介護施設などの世話になるかも知れない。この先の生活形態など予測も立てられない。
 そこでこの際、現況での利便性を第一と考え、主な電気器具を具えた都心の賃貸マンションを借りようと決断した。それならば先々の状況変化にも対応し易い。生活基盤を失うリスクも低い。家賃はかなり高いが、光熱費、交通費などの生活経費が減り、マイカー使用を止め、自宅を貸せば、老後資金の運用許容範囲に収まるだろう。
 問題は病身の妻を抱えての転居作業である。一度に引越すのでは、準備中に疲れも出よう。数回に分けてみる。
 取りあえずは使い慣れた大物の調度類と当面必要な物の運搬を業者へ依頼。後は気長に整理しながら、足りない物だけを自分たちで運ぶ。数か月経ってもまだ旧宅に残っている物は破棄する。気掛りな身辺整理も進むだろう。
 さてさて、思うように事は運ぶだろうか。出だしは好調だが、未だ期待と不安が交錯する。

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