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「800字文学館」

地図への誘い(二)私の登山経歴・奥秩父縦走

阿部 典文

 私の登山経歴は中学三年(昭和二十三年)夏の富士山登山から始まった。
 麓の富士吉田から夜を徹して歩き続けて八合目でご来光を仰いだ際、その日の出の神々しさに感極まった山岳部指導教官の音頭で、生徒一同「いや榮あれ日本」と斉唱し、周囲にいた登山客を驚かせてしまった。
 この教官は国語担当であつた。 敗戦の痛手にも拘らず神国日本の夢から覚めず、日本の復興と繁栄を願って思わず叫んだ声であり、この先生の指導で山登りに傾倒して行った。

 登山本格化の第一歩は、高校一年の夏休みの奥秩父縦走であった。
 当時はまだ戦後の混乱から脱却せず、奥秩父の山々は一般的な登山対象でなかった為、縦走路の登山案内書はなく、雲取山(2,017米)や金峰山(2,599米)などの単独の山の登山報告と地形図が唯一の情報源であった。

 またこの縦走計画は当時の高校山岳部のレベルからは多少背伸びした計画であり、その為山岳部部室に集まっての登山計画作成は熱気を帯びたものになった。
 しかし最も頼りになる筈の5万分の1の地形図(当時はまだ2万5千分の1の地形図は販売されていない)は詳細な登山計画には全く役に立たなかった。 このため昭和初期の第一次登山ブーム時代の山行記録が唯一の頼りになる情報源となった。図書館などで山岳図書を漁り、微かな記録を古書から拾い出す困難な作業の後机上の登山計画が完成した。

 このような経緯があったため登山の実行には多少の不安を伴ったが、高校三年生をリーダーとし一年生五名で編成された登山隊は、幸いに好天に恵まれ無事七日間の縦走に成功した。
 特に東京都の最高峰・雲取山から甲武信ヶ岳(2,475米)を経て国師ヶ岳(2,592米)一帯にかけての縦走では、千曲川・笛吹川(富士川支流)・荒川、そして多摩川の源流地帯の森林の豊かさと、登山者誰一人と逢わなかった深山の静寂さを満喫して、難渋した登山計画作成の苦労が報われた。

 一方無用と考えた地形図は各々の山の地勢的概念を与えてくれ、それなりに有用であることを学んだ。

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